[コメント] リミッツ・オブ・コントロール(2009/スペイン=米=日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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見始めてすぐに、ぶったまげた。言い方は悪いけれど、ジム・ジャームッシュはまだこんなスリリングな映画を撮れたのか、という率直な驚きだ。彼のこれまでのどの映画にもよく似ていて、同時にまた、まるで見たことがなく新鮮でもある。「最高の映画というのは、決して見なかった夢のようなもの」というセリフを地で行く(宙で行く?)空とぼけた豪胆っぷり。スタイルと、スタイルの崩し方とがしっかりとある映画だ。
「想像力を使え」と指令を受けて出発した男(イザック・ド・バンコレ)の乗る飛行機のシートには"Air Lumière"(リュミエール航空)のロゴ。「これは映画の世界である」という躊躇のない宣言が、「これから起こることすべて驚くに値しない」という余裕の気分と、「にもかかわらず、では、いったい何をするのか?」という不穏な予感とを同時にもたらす。当たり前すぎる見慣れた戯れが、かつてない逃げ口上抜きのド本気である、という倒錯的な緊張感。
同じことが"No guns. No mobiles. No sex."というセリフにも言える。早々に明かされる手の内に、共犯者気分でほくそ笑みつつ、しかし、何が待ち受けているのか、実のところ我々はまったく知らない。この安心感が信用できないのだ。要塞にどうやって侵入するのか、というその瞬間、観客に代わって「想像力」を駆使してしまう主人公をすんなり受け入れつつ(工藤夕貴の「私たちのなかに仲間じゃない人間がいる」という警告に、「俺は仲間ではない(I'm among no one.)」と答えるように、いかなる者にも属さない彼は、登場人物としてのリアリティにも観客の想像力にも束縛を受けないのだ)、身構えていたつもりのラスト・カットには唖然として一瞬取り残された。
スタイルと崩し方とがある、なんて物知り顔で書いてしまったが、どこが決まっていてどこから崩れていると受け取るべきか、半分、好みの問題みたいなものだろう。そもそも、流儀(スタイル)を持った寡黙な男、というバンコレのキャラクター自体が曲者だ。たとえば、冒頭から繰り返される太極拳。アメリカ人(ビル・マーレイ)との対決を前にしたその時だけ「やるぞ!」と言わんばかりのカンフーっぽい素早い腕の動きを交えるのが笑える。あるいは、やはり繰り返されるエスプレッソ二杯は言わずもがな。斜め隣に腰掛けたティルダ・スウィントンが二つ並んだカップを見て自分のほうへ動かそうとすると、ウェイターが慌てて戻し、ティルダ・スウィントンがもう一度いじくってから戻す、という一連のあいだの無表情な沈黙は、緊張感があるのかないのだか。それから、黒縁メガネ全裸の犯罪的("No sex"!)なパス・デ・ラ・ウエルタがプールを平泳ぎで往復するのを見下ろす切り返しのショット。絶対、ちょっと口元がニヤけていましたね(案外、別撮り?)。
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