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[コメント] パンドラの匣(2009/日)

竹さん(川上未映子)の、地に足のついた貫禄と、神秘的な不安定さという相反する魅力の両立と、マア坊(仲里依紗)の、天真爛漫であるが故の扇情性。道場の面々は、年齢性格様々なれど、不確定な死を一様に抱えることによる連帯感を感じさせる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭のシークェンスで、主人公の利助(染谷将太)が、おそらくロシア文学から借用されたのであろう「余計者」として自己を規定するところからして彼の、自己に辛辣であることがそのまま自己陶酔的でもある在りようがよく分かる。玉音放送による敗戦の知らせに皆が沈むなか、それまではわざと病を悪化させて死んでしまうつもりだった利助は、考えを改め、ちょうどその時に喀血したのを母に伝えようとするのだが、母はお国の一大事に息子のことなど構っていられない様子であり、やっと彼の血を目にしても、拍子抜けするような「まあ」の一言しか出てこない。つまり、利助の自己批判的な眼差しは結局のところ彼独りの中で完結してしまうのだが、そんな彼をさらに醒めたところから批評的に見る眼差しが、作品全体の眼差しとしてあるわけだ。

この、批評的な眼差しは、利助が手紙のなかで、妙に上から目線で批判していたつくし(窪塚洋介)が、実は利助が恋していた竹さんの結婚相手であったらしいことが分かるラスト・シークェンスの一シーンにも、皮肉な形で表れていた。利助は手紙のなかで、つくしが竹さんに憧れていたことに同情してみせていただけに、余計に間が抜けている。しかも竹さんの婚約を知ってから初めて自分の恋心を自覚するという、あまりに遅きに逸した結末。竹さんが好意を見せていたときには、彼女が多めに盛ってくれた飯を残してみせていたのも、いかにも若気のいたり。

こうした、利助のナルシシズムと、それに対する醒めた目線は、ちょうどこの映画の、利助のナレーションを軸に進行しながらも、飄々とした音楽や、その唐突な中断によって、情緒との絶妙な距離化と切断を為すといった、演出スタイルそのものから窺える。

健康道場の面々は皆、綽名が付けられており、その着る物にも名札が付いている。そのことと、「やっとるか」「やっとるぞ」「頑張れよ」「よぉしきた」のやりとり、奇妙な体操などにより、道場には「ごっこ遊び」風の時空間が漂っている。そうした仮想空間的な甘い空気と、結核という、いつ訪れるか分からない死の空気に包まれた健康道場の儚さは、利助の青春という時間の儚さと結びつく。

健康道場は、学校なのだ。実際に廃校で撮られているということもあるし、監督もこの作品を『うる星やつら』風の学園ドラマとして捉えている(本作パンフレット参照)。最後に、この「学校」から世間へ出ていくのは、竹さんとつくしだ。一方、利助とマア坊は「避難訓練」という名目で、かりそめの「卒業」の光景を最後に見せる。未だ訪れない卒業、青春の終わり。だが、このラスト・シーンの若々しい朗らかさは、まだ大人として出ていけない二人であるからこそ発散できる明るさでもある。

キャスティングはどれも的確だが、ここは敢えて、一見すると地味な場長=ミッキー・カーチスに言及したい。というのも、道場の奇妙な療法や慣習は、見ようによっては怪しげな場としての雰囲気を醸し出しかねないところなのだが、ミッキー・カーチスの、半ば無色透明のように自然にその場の空気に溶け込んでしまう佇まいがそれを回避しているからだ。それでいて超然としているような、だがまたとぼけた老人のようでもある、決して無個性ではない存在感。彼自身は殆ど空気のような目立たない存在なのだが、むしろ、だからこそ作品世界を見事に成立させているとも言える。仮に場長がまったく姿を見せなければ、それはそれで、却って妙な深読みを誘う怪しさを醸し出しかねなかっただろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)立秋[*] SOAP[*]

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