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[コメント] 黒い十人の女(1961/日)

十人という数は、それぞれの女を描くのには煩雑、でも、みなそれぞれに美しい女たちが全員集まった時の絵のすごさときりの良さがいいです。
NAMIhichi

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







観賞していて「女性の社会進出」ということが連想されるため、ただ単に十人の愛人から社会的に存在を抹殺される男のドラマ、愛憎劇ではすまされない感じがある。

たとえば、岸田今日子演じる女性が「仕事ができないんです、今のままでは」と言うセリフ、場面。対する上司は「テレビの仕事ってのは、女性には向かないんじゃないかね」「女性は家庭におさまるべきじゃないかね」と言う。

本妻である双葉は、風を考える暇を持たないように仕事を始め、最終的には離婚して仕事を選ぶ。同時に風は仕事を奪われる。

またその一方では、風との結婚を願っていた宮城まり子演じる三輪子という女性がいるが、彼女は夫、男性という支えがなくなって一時困窮しながらも、また男と結婚を望む。

このように古いタイプの女と、男から仕事を奪って新しい時代をいく女が出てくるが、前者の古いタイプを葬り去っているところに脚本家の意図がうかがえる。

ただ、どちらも男を「食い物にする」という点では共通していて、一方は夫として男を必要とし、亡霊となってまで「誰かあなたを本当に殺してくれないかしら」という口ぶり、他方は男の要素や仕事を吸収して自分のものにして生きていく。

映画の始まりは、男が十人の女を食い物にしている話だったのに、それが次第に、風という一人の男を十人の女がよってたかって食い物にしていく逆転が見られて面白い。

風を「見張る」市子は、「私とってもあなたを愛しているのよ」と吐露し、仕事も女優も捨てて男を愛する女、という自分を確かめるためだけに風を拠り所にしているように見える。が、二人の対話は対話にならず、市子は「人間ていつでもこうなのね。同じ日本語でしゃべっていても、あなたにはちっとも私の言うことがわからないし、私にはあなたがなぜそう悲しむのかおかしく思える」と言って終わってしまう。このあたりは、一番女性らしさが出ていると思う。重要な順に一、二、三と名前がつけられているそうだが、彼女が「市子」である理由がこの場面にあるのだろうと思う。

最後の劇団の送別会では、それぞれがお互いに自分の選択を勝ち誇っている。一方は男を否定し、一方は未亡人のたとえを出して、「かわいそうに一生愛を知らなかったのね」と話す。この時の1人対8人という構図もそうだが、冒頭の1人対9人や、浜辺での1人対10人など構図も楽しい。

交通事故の車が炎上する脇を、市子の車が通り過ぎ、車内から行く先の道を写して終わる、というのも今後を暗示しているのか、とても印象的な終わり方だった。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)檸檬[*] ぽんしゅう[*]

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