[コメント] リバティ・バランスを射った男(1962/米)
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私は、映画として、西部劇に回想はあわないものだと思っていた。前向きであること、闘うこと、チャレンジすることが西部劇の大前提。過去を省みる姿勢はカウボーイにマッチしない・・・。この点、私が観てきた限り、フォード監督はもちろん、セルジオ・レオーネ、ドン・シーゲル、クリント・イーストウッド監督も、次節に挙げるわずかな例外を除いて、例外の作品はない。
近年の西部劇のオマージュに溢れた『バック・トゥー・ザ・フューチャー3』は巧みに過去を“前向き”に演出したものであったし、最近ヒットしたケビン・コスナーの『ワイルド・レンジ』など、この意味でも西部劇の王道といえるものであった。
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例外としては、まずイーストウッド監督の『許されざる者』が挙げられるだろう。過去に犯した罪の意識に始まる設定は、西部劇としては特異な設定であるものの、復讐をテーマにしたストーリー自体は西部劇の一つのシンボルであり、そのシンボルを描きつつ、そこに終止符を“射った”かの様な印象を受ける作品であった。西部の時代に閉じた内容である点は『リバティ・バランスを射った男』とは異なる。
Vol.1とはうって変わって西部劇的要素をふんだんに取り入れた、最近の『キル・ビル Vol.2』も例外として挙げられるかもしれない。ただ、本作の場合、“素材”として西部劇の雰囲気を演出しただけであって、それ自体は画的に良かったと思うのだが、“作品”としては例外というより西部劇たり得ていない気がした。そもそも時間軸操作好きのタランティーノ監督にとって、時の流れに従う西部劇は相性が悪いのだろう。
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そして、本作『リバティ・バランスを射った男』。 冒頭の描写と回想の流れから、確かに西部の時代が終わったことはわかる。しかし、鑑賞前に想像したほど感傷じみたものでなかったし、フォード監督の西部劇との別れを感じさせるものでもなかった。ラストの列車の中でランスが妻に「あの街に戻ろう」と言ったように、むしろ全盛期を過ぎたフォード監督と西部劇への深い愛情を感じるものであった。このように考えると本作の意図が見えてくる。
本作は、現代の訪れと西部の衰退を全く感じさせない、と言ったらいい過ぎかも知れないが、鉄道、サボテンの花に象徴されるように、現代と西部時代を巧みに融合していた。登場人物も、西部を象徴するカウボーイ トム・ドナファン(ジョン・ウェイン)、気性の荒いマドンナ ハリー(ヴェラ・マイルズ)、大悪人リバティー(リー・マービン)、現代を象徴する弁護士ランス(ジェームズ・スチュアート)、ジャーナリスト ピーバディ(エドモンド・オブライエン)が見事に同じ土俵に立っていて、全く違和感を感じさせない。このような演出は長年、西部劇を愛し続けたフォード監督ならではだろう。
当然ながら、最も時の流れを感じさせるのも、街の風景や棺桶ではなく、人物描写であった。特にハリーに注目したい。冒頭とエンディングで気の優しい貴婦人が、昔は食堂でハッスルする気性の荒い全くタイプの異なる娘だったとの設定は、現代のハリーの描写があまりにさり気ないので見落としがちだが、ハリーのここまでの変化に、違和感を感じさせないどころか、気づかないほど自然なのは凄いことだと思う。
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回想に始まる『リバティ・バランスを射った男』は、構成上、西部劇の例外ではあるが、それは現代と西部を融合させるための演出であったとの発見は、映画の奥深さと、判った気になっていた自分の浅さを証明するもので、何だかうれしい。
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