[コメント] ザ・ウォーカー(2010/米)
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製作にジョエル・シルバーでグラサンといえば『マトリックス』だろう。『マトリックス』では認識のフィルタとか捏造とかあいまいさ、「見えているもの」への疑義みたいなものが世界構築の基盤になっていた。仮想世界に侵入する際には必ずグラサン(つまり色眼鏡)をしていた、というのは、「仮想を信じない。疑うことによって人間でありたい」という意思表示のあらわれであり、必須のアイテムとして機能していた。
ここでのグラサン着用は、核戦争後に「空が穴が開いたことで、強すぎる光(紫外線)が降り注ぐようになり、サングラスをしなければ目がつぶれてしまうから」という説明がされ、一般化しているが、逆に「戸外でグラサンをかけない(もしくははずす)」というアクションが強調されている。ワシントンが盲目であり、終盤ではフェイクのサングラスをかけていないこと、スティーブンソンが死の間際にグラサンを外して遠方を見つめるなどのアクションなどが印象的だ。
本作での「光」はいろいろなものを想起させる。空に穴をあけた「核撃」、つまり絶望をもたらしたもの、一方で、聖書中にも言及される「希望」「可能性」とも解釈できる。「光」、「空」への描写のこだわりから判断して、つまり、「光」をどのように「見る」のか、という映画として解釈したい。光は直視すれば強すぎる。利用を間違えば破壊がもたらされるだろう。一方、それを見ようとしなければ絶望に沈むだけだ。まことの目を持って「見よう」とすること(「光」について語るワシントンの「目」の印象的なクローズアップ)、それが重要だと説いているのだと思う。ワシントンにどこか共鳴するものを持っていたスティーブンソンが、ワシントンに近づこうとサングラスを外したシークエンス。単なる感傷とカッコつけの演出ではなく、意味があるものとしてとらえるべきだろう。彼も、まことの目で「光」を見たかったのだ。
ところで、「西」とは何を指していたのか。見終わってみれば、西部時代のことを考えれば可能性の地、フロンティアの暗喩として解釈するのが正しいのだろうが、話が飛ぶようだけれども、当初私の頭の中にあったのはコーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』で言及されていた「西」すなわちアメリカを起点として考えられた「西」=砂塵の果てに位置するイラクのことであった。序盤において、「西へ」という言葉が一種の右派的なきなくささを感じさせるのだが、これはミスリードとして仕込まれた一種の罠だ、と好意的に解釈しておきたい。つまり、そういった解釈から「信仰」を救いたい。そういう映画だと思った。被写体としてのワシントンの落ち着きも、極めて正しいものと言えるだろう。
能書はともかくとしても、アクション演出や、老夫婦宅での戦闘でかかるオールディーズのレコードなどのケレン、各所の、意外なほど落ち着いた演出は好感度が高い。残念なのは一面的に過ぎるオールドマンの悪役造形。それにしてもここまで魅せるのは流石と思わせる(私、怒りにわなわな震えてるオールドマンが好物です)。ラストのワシントンの衣装もちょっと無粋だな。
あと、これかなり劇伴が良かったです。すごく良かったんじゃないかな。
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