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[コメント] コロンブス 永遠の海(2007/ポルトガル=仏)

永遠の語らい』を想起させるが、よりシンプルかつ幸福な映画。世界への出航の地・ポルトガルと、世界から移民が集まる地・アメリカという両極を結ぶことによる、時空の結合。「郷愁」によって世界へと開かれるという、回帰と離脱の同時性。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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海という大平面に描かれた海路のネットワークによる、世界の結合と解放。それはまた、「発見」された大陸に既に住んでいた原住民らの視点を欠いているという意味で、全くの欧米中心史観とも批判されかねない面はある。その辺の不満は『アポカリプト』の記憶を反芻して口直しをするとして――、母との離別に始まり、長年連れ添った妻が郷愁を歌う場面で終わる本作は、ごく個人的な郷愁が、世界への郷愁と等号で結ばれる、小さくてシンプルながらも、壮大な物語。

冒頭のナレーションは、歴史上、様々な人たちが「自国への贔屓の為にコロンブスを自国人だと主張した」と語るが、では本作がコロンブスを、オリヴェイラの祖国ポルトガルの出身者として描くことにはどれほどの根拠があるのかと、一抹の疑問を観客は覚えることにもなる。だが監督は、そうした歴史上の事実云々よりも、出身国の不明なコロンブスの「エニグマ(謎)」(原題に含まれる単語)にこそ、積極的な意味を見出そうとしたのかも知れない。

世界中の大陸を発見した航海者たちの出発点としてのポルトガル。ポルトガル人であることがそのまま、世界市民であるということ。コロンブスが、新たに発見した大陸に故郷の「CUBA」の名を与えたこと。コロンブスの偉業が、宇宙飛行士らのそれと並べられることによる、更なる空間的超越と、時間的超越。新婚旅行を兼ねて、コロンブスの足跡を訪ねていくシークェンス中、頭部だけ遺された古い彫像を見た妻・シルヴイアは「近代彫刻だわ」と呟く。実際その彫像は、ブランクーシ辺りの作風を髣髴とさせるものがある。本作全篇を振り返ってみても、時間の流れや堆積というよりはむしろ、奇妙に静止した静謐さ、一個の球面のような、無限に移動でき、かつ自己完結的に完成された時空間、という印象がある。

そうした完成した静止性は、各ショットに多用されている、左右対称に近い、安定し充実したシンプルな構図にも、よく表れている。この完成度があるからこそ、画面を人物がサッと横切る、などといった些細な出来事が、画面にちょっとした驚きを加える。またそうした、構図が整えられたフィックス(固定)のショットが続いた分、マヌエルが妻に「海の広さを見に行こう」と海岸に着いた際の海のショットが、フッと宙に浮いてそのまま漂うシーンは、夢見心地の浮遊感をもたらす。

更には、夫妻を乗せた航空機が着陸するシーンのワンカット。機が、先導の車輌を脇に従えつつ車輪走行する様子の、どこかコミカルでさえある悠長さ。機と車輌が一旦フレームアウトした後、共に再びフレームインした瞬間、グッと観客の方に近づいていること。こうした、然るべき場所にカメラを固定し、フレーム内の時間の推移それ自体が一個の出来事であるという、リュミエール的なショット。一見すると、歴史解説と観光を兼ねたプライヴェートな映画とも映ずる本作が観客に与える映画的感興は、ショットの自己完結的な面白さという、映画の原初的な愉しみが組み込まれているからだろう。

新婚旅行シークェンスに於ける、車中のマヌエルとシルヴィア夫妻が会話しながら、ずっと観客の方を向いている姿を延々と捉え続けたカット。そこには、小津映画のあの切り返しショットによる会話シーンに見られるような、安定性と完成度のもたらす幸福感が漂う。だがオリヴェイラは、カットの切り替えによるリズムを画面に刻むことはせず、一つのカットで一つの出来事を捉える。むしろ想起されるのは、やはりリュミエールの『赤ん坊の食事』だ。そこで交わされる会話――親戚についてのちょっとした遣り取りや、歴史の知識の披露など、台詞の内容自体は観客にとって別段興味を惹くものではない。だが、若夫婦が言葉を交わしているのが見えるフロントガラスの、左右対称的な安定した構図に配された、屈託の無い微笑を湛える二人の顔、というショットのシンプルさがそのまま、素朴な幸福を感じさせてくれる。

若き日のマヌエルが、兄弟と共にアメリカに到着するシーンでの、濃霧の中に灯火だけが、滲んだ光の点として見える光景の美しさも忘れ難い。

全篇を通じて一つ気づかされるのは、仰角ショットと俯瞰ショットの多さ。「歴史」を見上げ、また「歴史」に見下ろされるマヌエルたち。彼らが見上げる、ポルトガルの歴史的な遺跡は、後の老夫妻のシークェンスに於ける、ニューヨークの高層ビルと全く同等に捉えられている印象がある。

冒頭シークェンスでは特に、父に呼ばれてアメリカへ向かう兄弟を母が見送るシーンで、それまでの仰角と俯瞰から一転、水平の、目線の高さを等しくするショットで、この母の表情が捉えられていたことで一つの感動が生まれる。そして、兄弟が乗船していくと、母との間に再び高低差が表れ、シーンの最後は、母が一人歩いてフレームアウトするまでを、俯瞰ショットで捉える。この、或る人物なり車なりの被写体がショットから去るまでの時間をも、捉え続けるということ。また、人物が去った後の「不在」の光景をもショットに収めるということ。そうしたアプローチにより、人物と風景とが全くの同等の資格をもって映画を構成する。

結婚式のシーンでは、司祭の言葉をマヌエルとシルヴィアが復誦する声が、それと特に関係の無さそうな風景のショットに被せられている。ここでもやはり、風景と人物とは、互いに独立し合いながらも同等に存在している。後のシーンでは、シルヴィアが暗誦する詩を、マヌエルが復誦している。そのことで、妻を自分の歴史検証の旅につき合わせているマヌエルもまた、司祭の言葉に従うように、妻に忠実でいる様子が垣間見える。

雲や、頭部だけの彫像、航海者たちによって世界中の到達地に置かれたという、十字の記念碑など、「白さ」の輝きが、海の青さと共に画面に爽やかな解放感をもたらす。特にエンドロールの美しさは特筆すべきもの。波が打ち寄せる浜辺と、真っ青な海、画面をゆっくりと横切る、真っ白な客船。陸と海とが同時に視界に納まること。色彩による解放感。

本作を一言で表す台詞があるとすれば、「海の広さを見に行こう」だろう(妻への呼びかけである点を踏まえて)。この台詞は、視界を遮るものによって海がよく見えないことから発せられたものなのだが、ラストカットもまた、ミュージアムの窓から見た、建ち並ぶ家々越しに海が覗くショットだった。その海の広さを見に行ったかのような、エンドロールの広々とした海。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)赤い戦車[*] moot

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