[コメント] 瞳の奥の秘密(2009/スペイン=アルゼンチン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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その雑多な要素群に映画が右往左往するさまが非常に面白いのだけれども、雑多すぎるあまり、一本の軸としてそれらを貫き通しながら支えるべき「リカルド・ダリンとソレダ・ビジャミルの関係性」が軸となりえているかは怪しいところでもある。乱暴に翻訳すれば、事件の顛末が面白すぎて「ビジャミルに対するダリンの秘めた想い? そんなんどーでもいいよ!」となりかねないということ。
視覚的な見せ場に関して挙げられるべきは、何と云ってもまずスタジアム・シーンだろう。スタジアムで空撮と来れば『ダーティハリー』ですねとなるのが人情だが、一方は超満員、他方は無人という点に限らず、画面の具体的水準においてはまるで異なりながらも『瞳の奥の秘密』のそれはやはり『ダーティハリー』のように力の入ったシーンだ。よく撮れているかという点は別にしても、こうした野心的な試みはとても嬉しい。
『ダーティハリー』ついでに云えば、ここでも「刑事=犯人」の図式は成り立つだろうか。愛の形およびその表出の仕方について、ダリンとパブロ・ラゴ、またはダリンとハビエル・ゴディーノの等質性/相似性/対称性(あるいは逆に、異質性)はもっと強く匂わせてもよかったかもしれない。それによって、先ほど述べた「ダリンとビジャミルの関係性」は「軸」としてより強められただろう(もちろん作者はそれを期待して物語の構造に埋め込む形で果たしているのですが、演出の次元では決して強調されていません。ただしよほどうまく演出しない限り、そのような「分かりやすさ」は映画の幼稚さを導くことになるでしょう。写真に記録されたゴディーノとダリンの想い人に対するまなざしがそっくりというのは、なんというかまあギリギリですね)。
ところで、劇中幾度にもわたって挿入される回想シーンは、多くの場合において数秒間だけサウンドトラックが先行して過去時制に移行する形をとるが、往々にしてそれらの各回想シーンは「映画世界内事実」「ダリンの記憶」「ビジャミルの記憶」「ダリンが執筆中の小説の映像的再現」のいずれであるか必ずしも一義的でない(もちろん「小説の再現」と受け取るのが素直な見方である場合が多いのですが)。おそらく「回想シーンはすべて映画世界内虚構である」といった解釈や『羅生門』的テーマを演出家は企図していないだろうが、解釈の多様性およびひとつの解釈に基づいたとしても残される多義性によってダリンとビジャミルの関係性に膨らみを与える、といった程度の腹積もりはあったと思われる。それは冒頭に置かれたダリンとビジャミルの離別のシーンに顕著だ。何と表現すればよいのか適切な言葉が見つからないが、背景や被写体の動作にエフェクトがかけられ、まるで時間の流れが一様でないかのような画面(これは端的に「客観的事実」ではない)が、ただごとならぬ情感を創出して映画を起動させる。
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