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[コメント] 軽蔑(2011/日)

ポールダンスというのは、誰が踊ってもエロティックなものだと思っていたが、決してそんなことはないのだという当たりまえのことに今さら気づかされる。真知子という軸が定まらず最後まで物語が成立しないもどかしさ。冒頭10分間の〈つかみ〉の失敗がすべて。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ポールダンスというのは艶かしい肢体でエロスを表現するもの。悲しいかな鈴木杏のそれは、まるで子供の体操。そのどうしようもなさに気づいた廣木隆一は、なんと鈴木の顔のアップを多用してダンスシーンを構成してしまった。苦肉の策とはいえ邪道きわまりない。ここは吹替えを使ってでも真知子を、とびきりエロティックな踊り手として見せきらなければいけなかったはずだ。

何故なら、そのエロスによって真知子という女の魅力(=魔力)が映画の中に規定されるからだ。たとえば、育ちや品性に難はあるが、踊り手として発散する天性のエロスで男を惹き付ける娘。あるいは、不器用ながらも根っからの踊り好きが高じてトップに登りつめた誰からも愛される努力のダンサー。それとも、テクニックとほとばしるエロスで他の踊り子を圧倒し、歌舞伎町に君臨する自他共に認める気位の高い天才ダンスクイーン。どれでもいい。でも真知子は、そのどれにも見えない。

真知子は一彦(高良健吾)に対して「五分と五分」の関係を主張する。そして、地方の海辺の町の地縁と密度が醸す重さのなかで、資産家のお坊ちゃんでドラ息子という一彦のポジションと、どう「五分と五分」の関係を保つかの苦悩がドラマの核となる。しかし、一彦の立ち居地に対して、新宿から地方の町へ流れてきた真知子が、いったいどんな女であるのかが規定されていないかぎり、本人にも観客にも「五分と五分」の距離など測りようがないではないか。必然として、男と女の葛藤はうわべだけのものとなり、そこにはいかなるドラマも生まれない。

真知子と一彦がからめばからむほど、関係性の空疎と、展開の嘘っぽさが充満する。そして映画は、カタチだけを踏襲しながらステロタイプな文字通り〈悲劇的〉な結末へ向かう。『卒業』の逆パロディみたいな葬儀場からの喪服のままの〈高飛び〉に添えられた「憂歌団」の木村充揮の虚しさ。『勝手にしやがれ』もどきのラストシークエンスから、突如、車中(タクシー?)へとジャンプする意味不明なシチエーションの違和。

最後まで真知子という女が物語の軸として機能しなかったがゆえに、フィクションがフィクションとして成立しないいらだたしさ。エロスなんて、ただの裸だろうと高をくくって、なめたつけである。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)直人 worianne[*] 水那岐[*]

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