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[コメント] ヒミズ(2011/日)

園子温の「堕落論」。破壊される世界の不条理に対峙するに、お仕着せの美辞麗句や自己愛塗れの善意を拒絶し、怒りと自壊から始めようとする姿。否定や肯定の世界ではない。深い闇に沈潜してこそ見える光。新世界。しかし、そこには常に「コントロール」の問題が立ちはだかる。「泥」(怒り)塗れの天の邪鬼な「ボーイミーツガール」。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ニヒリスト男子とニヒリストに憧れる女子の「ボーイミーツガール」。時としてニヒリズムへの安易な埋没は幼稚である。彼らの序盤における言葉遊びは児戯みたいなものだ。二階堂ふみが浮き浮きとチャラい教師の「がんばれ!」に反駁する一連の言葉や住田への思慕ですら、単なる不幸好きが弄ぶ言葉のような空々しさが漂う。

しかし、ニヒリズムは反語的表現である。彼らは天の邪鬼なのだ。坂口安吾はいみじくも「自殺するやつはもっとも生きたいと願ったやつだ」と述べている。至極真っ当な純粋さに根差す「普通であること」への希求、そして「普通でないこと」への「怒り」と闇への沈潜を経由した新世界観は、圧倒的な破壊を目の当たりにした今(例えば「戦後」の坂口安吾の思想がそうであったように)、説得力を持ってくるだろう。事実、真の闇に落ちていく住田に対峙する中で、茶沢の言葉は自らの言葉を脱構築して強靭になっていく。住田の闇は真摯な闇だ。茶沢はその真摯さこそ世界に対峙するエネルギーだと感じて惹かれるのだが、闇に溺れるだけではダメなのだ。それはダメなんだけど、どうにも巧い言葉に出来ない。そのあがきと苦しみの中で絞り出す言葉のひとつびとつ。光なしに闇はあり得ず、その逆もまた存在しない。深く沈むほど、光は強く輝くだろう。だが、深く沈むほど、危険も大きくなるのだ。

真っ当で純粋な思いが果たされない不条理に対する苛立ちに支配され、制御不能に陥る豪雨の殴り合い以降、決定的に泣かされた。ほんとうに光を求めない者は、あんな殴り合いをしたりはしない。これは諦観や虚無ではない。虚無では絶対にダメなのだ。虚無こそは最大の敵である。とにかくダメなんだと茶沢が叫ぶ。俺も豪雨の中で殴り合いたい。この苛立ちと不器用さこそが、肯定だとか否定といった小賢しさを超えた「物語」を呼び込むだろう。器用な人間の物語など見たくはない。

闇を経由して光に脱出する物語のほうが、園子温には向いているのではなかろうか。『愛のむきだし』の、車窓をぶち破って手をつなぐラストショット。本物の闇をくぐり抜けた先にあらわれた「がんばれ!」に、あの瞬間以来の、むきだしの感動を覚えた。

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・堕落論になぞらえて考えるなら、「震災」というモチーフの挿入は適切だったと思う。茶沢は安吾的な白痴としては描かれていないが、一種の聖母として描かれている点は共通していると思う。

・終盤のロウソクについて。『冷たい熱帯魚』のときは何だこりゃと思いましたが、今回のは「ハッピーバースデイ」の意味と見た。

・「ふつうであること」に寄せる強い思いは、『八日目の蝉』以来のものを感じた。あの井上真央も聖女だったと思います。

・全体的な構図が『鉄コン筋クリート』(シロとクロの関係性)に似ているように感じたが、地獄と言葉で説明される街にピンとこず、ついでに言うと観念的な戦いに逃げたところがどうもいけないと感じた。江戸の仇を長崎で討ってくれた気分。

・またしてもモーツアルトのレクイエムとバーバーのアダージョという反則技の多用。認めないぞ。絶対認めないからな!・・・とか言いつつ、決壊する涙腺を止められない。

(評価:★5)

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