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[コメント] メランコリア(2011/デンマーク=スウェーデン=仏=独)

琥珀色の灯りのもと、広漠たるゴルフ場に漂う終末感。天から降るものが告げる世界崩壊と、天に呼応する魂のような青い電流。世界を侵すメランコリアの青い光を浴びて(花嫁衣裳の「白」から青へ)、終焉の美と一つになるキルスティン・ダンスト
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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とはいえ、その「美」は、禍々しい、というよりは、バカバカしい、と言いたいところ。メランコリアが「太陽の裏側に隠れていた」という設定からして、この世に生命を与え、輝かせていた光の裏には死が控えていたのだよ、と言いたげだ。死と絶望こそが真実だ、という「気分」を、天文学的かつ哲学的な「真理」に昇格させるという、何とも中二病的発想。

そうした空疎かつ主観的な世界観を、ロマン派絵画のようなカットの美によって納得させようというわけだ。正直、冒頭のスローモーションは、見事と言いたい反面、あまりにも狙いすぎなその絵画性は、どこか失笑したくなるものも感じた。ビル・ヴィオラのビデオアートの下手な剽窃にも見えてしまう。『アンチクライスト』では、そんな、吹いてしまいそうな気恥ずかしさだけは排されていたのだが。

「メランコリアは通り過ぎる」という台詞が、惑星メランコリアと、文字通りのメランコリア(憂鬱な気分)とのダブルミーニングを匂わせる辺りは、もっと展開して、暗喩劇としての工夫が見られてもよかったかな、と。全篇に渡って、気分だけで撮り上げてしまった観が強すぎる。ヒトラーも愛聴していたらしい“トリスタンとイゾルデ”が、そうした気分を壮麗に彩り、かつ正当化している、というつもりの演出なんだろうな、これは。

第一部は、豪華なホームビデオといった印象で、これが延々と続くのには参った。「第一部:ジャスティン」は、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)が、リムジンやら結婚式やらコピーライターの仕事やらなんやらの世俗に自らの身を組み入れようと格闘する。世俗というか、部屋の美術書にイラつくシーンからして、人工的な美にもイラついているご様子。尤も、他ならぬこの映画そのものが、人工的な美以外の何物でもないのだが。

第二部ではその姉・クレア(シャルロット・ゲンズブール)が、妹的鬱世界と格闘。彼女の、最後の時には家族揃ってワインを飲んだりとかして「素敵な感じ」にしたい、という願いは妹の「バカなんじゃないの」という態度に一蹴されるが、最後には当の妹が、その辺の枝を組み合わせて「魔法のシェルター」を作り、三人仲よくその中で終焉を迎える。その辺の枝に、ナイフで多少手を加えて、という簡易さが、ゴルフ場という、自然の大規模な人工化と対照的。

自然、といってもこの映画、風景に対しては優しいが、ジャスティンが「生命は邪悪」、「地球の他に生命はない」と、何やらそう言っている自身はその邪悪さから除外されているかのような口振りで言う台詞の如く、鳥は冒頭(=物語時間内では最後)で落下するためにしか存在していないかのようであり、また、ジャスティンが可愛がっていたはずの馬も、彼女の命に抗って、川を渡ることを拒む。この馬の名がなんと「アブラハム」で、苛立つジャスティンに激しく鞭打たれさえする。あの『アンチクライスト』にも、ここまで反聖書的なシーンはなかったような(笑)。ジャック・バウアーは馬小屋(キリストが生まれた場所)で自死しているし。「大丈夫だ」「助かる」という台詞に信が置けるこの男に散々そう言わせた後でこういうシーンを持ってくる底意地の悪さは利いている。

(評価:★2)

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