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[コメント] 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2011/日)

いちいち絵に描いたようにファナティックな満島真之介のヤバ度は九〇を超えている。井浦新による三島由紀夫像も発明的に新しい。ただし、ここで「新しい」とは正負いずれかの価値を持った評価語彙ではなく、単純に事実の指摘である。映画の質感は伝記的である以上に三島・森田の変則バディ・ムーヴィだ。
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ほとんどすべてのカットが制作予算の貧しさを告白している。たとえば「ロケーション・ポイントの整理統合」がそうだ。と云うと何やら難しそうに聞こえるかもしれないが、ごく簡単な話で、この盾の会はことあるごとにサウナに通っている。この人らはめちゃサウナ好きなんなあ、と観客が本筋と離れた感想を抱いても無理はない。あるいはひょっとするとこのあたりも事実に則った描写なのかもしれないが、ともかくちょっと気の利いた演出家ならばサウナ以外にもロケーション・ポイントを追加して画面に変化を求めたくなるところのはずだ。しかしそれは更なる制作予算を要求するだろう(『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』において、若松孝二が自らの別荘をあさま山荘に仕立てたのも有名な挿話ですね)。

だが、ここでより重要なのは、もはや若松の演出論は予算の貧しさと一体と化して映画を組織しているという点だ。市ヶ谷駐屯地における井浦の演説シーン、普通の演出家ならば「聴衆」たる自衛官のモブを用意するところだろうが、筋金入りの低予算映画制作者・若松はそれをしない。カメラは井浦の渾身かつ支離滅裂な演説を凝視しつづけ、オフ・スクリーンの仮想モブによる「ガヤガヤ」というノイズがサウンドトラックを侵食する。「聴衆が耳を傾けているかどうかも分からない」どころか「声が届いているかどうかも分からない」という演出である。これがこの出来事に対する若松の映画的回答であり、それ以上のものでも以下のものでもない。確かに若松の思想的立場は中庸とは云いがたいが、こと映画作品そのものに関してはどのような題材を扱ったものであれ、冷徹なまでに公平な映画言語によって語られている。

(評価:★3)

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