[コメント] ファウスト(2011/露)
アレクサンドル・ソクーロフ式スラップスティック・コメディ。敢えて文学の話をすれば、印象はゲーテというよりもカフカに近い。「執拗なつきまとい」も「取っ組み合い」も優れてカフカ的モティーフで、きわめて明晰な各瞬間の描写がいつの間にか常人の理解を越えた論理展開を示している点もカフカ的だ。
独自の音響設計が唯一無二のソクーロフ映画世界を構築している。ごく単純な点を挙げれば、台詞が誰によるものなのかよく分からないというのがそうだ。この映画においては非常に多くの場合、発話者は発話の瞬間に画面外に位置させられている(逆に云うと、カメラは発話者以外の人物を撮っている)。カメラが発話者を捉えている場合でも、往々にして口元は写されない。したがって、台詞と唇の動きの同期が確認できない。珍しく発話の瞬間の口元が撮られたかと思うと「声が二重に聞こえる」などというふざけた事態が起こってしまう。これらの結果として「台詞が誰によるものなのかよく分からない」また「ヨハネス・ツァイラーの台詞が、声を発したものなのか心内発話にすぎないのか判然しない」といった状況が生み出されている。背景あるいは画面外の人物たちが常にガヤガヤと騒がしいのも(有意味の語を発しているのかどうかも怪しく、当然日本語字幕化もされない)音響の混乱を増幅して映画世界の自律化に与っている。
さて、しかし、以上を初めに「独自の音響設計」と呼んでみたが、私の貧しい映画体験の中からでもこれらと近しい演出を試みていた映画作家を二名ほど挙げることができる。それすなわちアンドレイ・タルコフスキーとヴィターリー・カネフスキーである。が、その地理的な符号に何かしら意味もしくは理由があるのかを私は知らない。
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