[コメント] おおかみこどもの雨と雪(2012/日)
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物語展開と気象現象が密接に連関している点で、実にオーソドクスな作劇・演出である。たとえ「高速で斜面を転げ回る」という頸椎等の損傷が懸念されるアクロバティックなアクションが演じられようとも「雪」は紛れもなく幸福の風景であり、一方「雨」は雨と先生の、また花と雨の別れを導いてしまう。さらに成瀬巳喜男『乱れる』ラストシーンを参照したと思しき花とおおかみおとこの別れにおいても、参照元に背いてまで雨を降らせないではいられないこの映画世界の論理は、したがって命名の時点ですでに雨少年が家族から独立することを暗示的に予告している。
しかし、これが全篇にわたってオーソドクスを貫いた映画かと問われれば、首を縦に振ることは難しい。その理由のひとつは、花を筆頭とした作中人物の「読書量」である。自然分娩についても、狼の生態についても、農作業についても、花は書物を通じて学ぶ。花もおおかみおとこも待ち合わせの際は本を読んで時間を潰し、逢引まがいの振舞いが図書館において行われる。そもそもふたりは「教科書」の貸借を通じて交際を始めていた。花のアパートメントには実在の書物がこれ見よがしに並べられ、おおかみおとこも「家」への憧れを語るに際して「書架も拵えよう。不足したら増設しよう」という意味のことを述べる。幼い雨は狼を悪役に仕立てた絵本を読んでショックを受ける。もちろん、実際にこのような人物がいたとして、それは何ら不自然なことではない。しかし映画世界に生きる作中人物がこれほどまでに書物と関係することには、どこか異常の気配を感じなくてはならない。たとえば「本を読むことだけが唯一の愉しみである」と宣う山下敦弘『苦役列車』の森山未來でさえ、ここまで本を読むカットは与えられていなかったではないか。農作業に関しては農家の小父さん小母さんの協力も描くなどして、人的交流と経験知の重要性の認識を何とか取り繕ってはいるが、それでもこのような書物偏重の態度はほとんど反動的であるとさえ云いたくなる。
より詳細に画面を見つめてみよう。花とおおかみおとこは「教科書」の貸借を通じて交際を始めたと述べたが、花がおおかみおとこの姿を認めた最も初めは、彼が一心に講義内容を「帳面」に書き留めていたところであり、そして会話のきっかけは「出席票」の提出に関してである。また、この映画は「御伽話のような」ある種の抽象性を目指していたはずが、他方では出身校など(不要に思えるほど具体的な情報)を列記した花の「履歴書」を明示するカットを採用面接シーンに紛れ込ませている。したがって上で「書物」「本」という語で指示された対象は、ここで「言語が記された平面物」すなわち「文書」と呼び換えるべきかもしれない。これによっておおかみおとこの遺品が「運転免許証」である必然性が明らかとなる。故人の想い出を偲ばせる遺品は「写真」であるほうが映画的な常識に適っているし、もっと古式ゆかしく行きたいのであればJ・J・エイブラムス『SUPER 8』のように写真をはめ込んだロケットでもよい。しかし『おおかみこどもの雨と雪』が抱えた文書に対する偏執は、故人を象徴する遺品として公文書たる運転免許証を要求する。
しかしながら、その偏執の原因を云い当てることは困難だ。素直に考えれば、やはり映画が人間と狼の境界を「言語」に見定めているからだろうか。おおかみおとこが花に、また雪が草平に自身が人狼であることを明かすシーンを見れば分かる通り、四つ足の完全な狼と化さない限り、つまり人間と狼の折衷的形態における彼らは依然として言語を操ることができるようだ。雪が優れて人間的な制度である「告白」を自らに課しているころ、母親を駐車場に置いたまま山岳に分け入った雨は言語を捨て去って「遠吠え」をするだろう。映画を眺め返してみれば、そもそも雨の野性は思わず「文系的な」と形容したくなる「寡黙」によって装われていた。ナレータまで務めてみせる姉との台詞量の差は歴然としているが、ともにH₂Oである「雨」と「雪」がただ温度のみの差によって甚だしく形態を異にするように、言語によって分かたれた姉弟の進路の別は決定的でありながら連続的でもあるはずだ。
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