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[コメント] 夢売るふたり(2012/日)

震災後、安易に交換されだした「夢」や「勇気」や「絆」。それにのっかっている主体のないお前は誰だ? とでもいうような監督の苛立ちを感じる。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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西川監督は思索の人だと思う。

ゆれる』にしても『ディア・ドクター』にしても、テーマは「罪と罰」だったり「真と偽」だったり哲学的で、とりわけ「事象」の裏側の「心象」や、「表層」の裏側の「本質」のような、出来事の層になって隠れている部分をあぶりだすことに関心の高い人と思う。そういう監督の作品に対する思い込みというか、期待感を持って鑑賞しているせいと思うのだが、本作の松たか子演じる里子が、単に妻の嫉妬とかいう「女性性」的な動機で行動しているのではない、もっと得体の知れない者のように感じたのだ。

女性たちの思いの詰まった借用書を見ながらのオナニーや、ひとつの敗北としての妻を示唆する生理用下着の着用、鈴木砂羽扮する愛人のカールした髪がはねる後姿を見送る、ぺったり頭にはりつく髪の主人公、というような描写が、むしろ女性目線であることを無理強いしているかのようにあざとく感じたこと。つまり表層は妻の嫉妬の物語のように見えているが、もっと語りたかったことが裏側に潜んでいるかのように感じるのだ。 (いや、本当は、西川監督ならそうするだろうという裏読みというか、そうあって欲しいという期待感があるのだった。)

監督が里子に投影したものは、自分の夢を見たり相手の夢をかなえたりという当事者行為ではなく、他人同士が「夢」の与えたりもらったり(等価交換)している図式にのっかることで自己を表現しているような人たちの気持ちの悪さにあったように思うのだ。

具体的には、震災後の日本にあらわれた「夢」とか「勇気」とか「絆」とかいう言葉が一人歩きし、もはや被災者や被災地と何も関係のないところで、「オリンピック日本選手の活躍」に「勇気をもらいました」とかいうことを、自分の物語にしてしまっているような、主体がなくただ「夢」とか「絆」の交換の図式にのっかっている人たちの薄ら寒さへの嫌悪を里子で表現しているように見えるのだった。そういう人たちがツィートしているような「夢」とか「絆」って、お金で売り買いできそうな物みたいなものだね、というのが監督のテーマなのではないか?と思うのだ。

そう確信したのは、里子が、「自分のやっていることは誰からもほめられることだが、自分が誰かに与えることはできない。そういう生き方をしていると取り返しのつかない人生になる」というダイレクトな台詞で、これは、善意の芸能人が被災地を激励に訪れて、その芸能人が被災地の人に安らぎを与えているんだという記事に、いいね!、ってコミットするだけで、自分が何か役割を果たしたかのような、主体のない生き方全般への指摘ととらえるほうがしっくりくるし、ラストで里子に対し、当事者同士のやりとりに首をつっこんでいるだけのお前はいったい何者なの? とでもいうようなぶしつけな目線(カメラ)が向けられると、ぷいっと不機嫌そうに目を背けてしまうカットで終わるのもふに落ちるのだ。

映画では夫が妻の思惑と離れて夢を与える当事者として自立していく。うがちついでに言えば、夫はリア充になっていって、それが里子には許せない、というのがこの作品なのではないだろうか(木村多江の家のまな板の板前包丁がその象徴で)。

(評価:★4)

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