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[コメント] 愛、アムール(2012/仏=独=オーストリア)

エマニュエル・リヴァがまだ健在だった時系列上の第一シークェンス、およびジャン=ルイ・トランティニャンが見た夢のシーンを除いて、カメラの可動域は老夫妻の住居内に厳密に限られている。妻の手術も夫が参列した葬儀もカメラは無視する。撮影の基準は「出来事」でも「人物」でもなく「空間」である。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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限定された屋内空間で全篇が終始する映画を画面の貧しさから救う間取り演出について、たとえばロマン・ポランスキーおとなのけんか』との比較は興味を誘うところであるが、ここでは措く。

カメラが住居の内側に留まり続け、例外はリヴァの発症前と非現実の場面に限られること。そこから「内部/外部」あるいは「閉鎖/開放」といった主題を取り出してみせることは、確かに不当な行いではないだろう。しかし、舞い込んできた鳩にまつわる意味深長な挿話、また警察が扉を突き破るファーストカットなども併せて鑑みれば、「侵入」の映画とでも呼ぶほうがより適当であるように思われる。

不幸は侵入する。

したがって、これはまさしくミヒャエル・ハネケの映画だ。もちろん、この夫妻の在りようを「不幸」の一語で片付けてよいはずがないだろう、という異議申し立ての権利は映画表現の複雑さによって予め保証されている。

ただし、この映画を複数回見た観客にとっては、あるいは、以後のことの次第をすべて了解した上で巻頭を思い返せば、演奏会の帰りからリヴァの発症にかけてのシーンが、まるで病と「錠前を壊されて空き巣に入られたこと」(=侵入)が相関しているかのごとき語り口を持っていたことは明らかなはずだ。このような語り口の不条理は、たとえば例の鳩のシーン、またリヴァ殺害の前後とオープニング・シーンの連絡(内側から厳重に閉ざされていたはずの住居から、トランティニャンは忽然と消えている)あたりにも顔を覗かせるが、ゆえにトランティニャンの末路についても一通りのみの解釈が許されているわけではない。しかしながら、扉の目張りや、窓を開放して臭気をはらうような身振りを見せる警察官は、彼がガス自殺を図ったことをこれ見よがしにほのめかしている。首を縊るでも高所から飛び降りるでもない自死の方法がここで積極的に示唆されている由縁はもはや明白だ。すなわち、体内への侵入によって死に至らしめるというガスの性質である。

現実にもじゅうぶんに起こりうる時事的状況の悲劇『愛、アムール』は何やら愛らしきものを描いて私たちを動揺させるが、抗う術のない不幸の侵入をまなざす態度において、ミヒャエル・ハネケは依然仮借ない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*] DSCH

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