[コメント] 風立ちぬ(2013/日)
風に舞う帽子や傘、風に繰られるページ、風に乗って空間を縦横に切っていく飛行機。「風」という主題と無邪気に戯れる宮崎駿の描く、伸びやかで律動的な空間性とアクションの見事さに圧倒される。それと反比例して、というよりはむしろそれに伴って、軸となっているはずの恋愛を含めた心理描写はあっけらかんとした直線性に従っており、大人向け子ども向けという点で対照的に思われるであろう『崖の上のポニョ』と完全に同質。震災の瓦礫から戦災の瓦礫へと至る過程、社会的な現実は、主人公・二郎の“プロジェクトX”的熱情と、中学生レベルの恋愛シーンに覆われて、映画内世界の埒外に置かれる。いや、一応の描写はあるにはあるが、極私的な、二郎の情熱という世界の背景としての書割的なものにとどまっている。ヒロイン・菜穂子にしても、二郎の前に、風と共に現れて、彼に「綺麗なところだけを見せ」て風のように去っていく。仕事に打ち込む二郎に寄り添うことで命を削っていく菜穂子の喀血が、彼女が筆を走らせていたキャンバスの上に絵の具のように落ちるシーンに象徴されるように、二郎の情熱によって犠牲にされ血を流すこともまた、描かれた絵として、モネの“日傘をさす女”の絵のように美的に作品化されてしまう。二郎にとって悲劇は、墜落した飛行機の残骸という形でしか描かれず、生身の人間の痛みはそこにはない。或いは、菜穂子の献身のように無邪気に美学化されてしまう。世界の崩壊と混乱を伴いつつも、唖然とするほど無邪気に肯定される恋愛。『ポニョ』と同質の物語が、戦争という、死屍累々の現実のうえに無邪気に描き込まれていく。不気味な映画である。夢のシーン中、飛行機の機体のうえを歩くシーンで、二郎が、「夢とはいえ、首が切断されるぞ」などという台詞で、プロペラに注意するよう言われていたが、血肉を有した人間の痛みや死が、作り手の美学的都合で恣意的に調整されるさまがあからさまなこの映画の本質を突いている。音響演出が、人の出す息や声で作られたことで、飛行機には有機的な生命感が生まれ、震災のシーンには、不気味な、大地の息遣いのようなものが表われる。しかしそれは反面、無機物であるはずのものにすら、人間の肉体性を与えるという、主観性や恣意性をも感じずにはいられない。それでいて、主人公の周囲の近しい人間ではない人々は、飛行機や電車やタクシーといった乗り物の内から眺められ、見下ろされ、それら乗り物の前進によって搔き分けられる群れ(出稼ぎ労働者や、取りつけ騒ぎ)、或いはそこにお客として乗り込む無自覚的集団という、風景的存在でしかない。喫煙シーンの頻出について、一部から批難を受けたと聞くが、時代的背景云々を措いても、会話シーンのように本来動きのないシーンでも空気の遊動性を表現する手段として、これも「風」の主題への忠実さだろう。それはいいのだが、結核患者の傍でまで煙草が我慢できないというのは、二郎の幼稚な精神性の表われと見られて仕方ないし、それは、この作品から覗える宮崎の精神性とも同等のように感じられる。
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