[コメント] そして父になる(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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だが、それでも主人公の座は福山雅治にこそ与えられる。私はそこに、ドキュメンタリ的リアリズムから多くの養分を吸い上げてフィルモグラフィを形成してきた是枝の「フィクションであること」に対する覚悟の表明を見る。敢えて使い古された言葉で云い換えれば、『そして父になる』は是枝にとって最も映画的な映画である。
しかし、どうしてそのようなことを云い切れるのか。以下、これについて論点を「小道具の使い方」に限って述べてみたい。まず一点目は「ギター」だ。物語の終盤、福山の書斎に置かれたギターが「銃器」に見立てられ、これを契機として福山はたちどころに実の息子である黄升げんと打ち解け、戯れを始める。「なぜ?」と疑問を挟む余地もないこの瞬間的な感動がまさに「映画」の感動だ。このように小道具が本来的な用法(ギターであれば「奏でる」)から外れて現実的なもっともらしさ―それは従来の是枝が多くの作品と場面で依拠してきたものでもあるが―に逆襲を加えるとき、どういうわけか映画的な光景が呼び覚まされる(*)。優秀な演出家は皆それを知っており、たとえ無意識であれ、ほとんどすべての観客もまた本能的にそれを感知している。
むろん、ギターはここで唐突に登場したのではない。これ以前の福山の書斎シーンにおいて、小道具というよりもセット・デコレーションの一部といった在り方でギターは私たちの前に曝け出されている。私たちがこのような瑣末とも云える細部を記憶しているのは、おそらく福山演じる野々宮良多というキャラクタが器楽というおよそ実利的でない趣味を持っているらしいことに対する違和感のためだろう。ところで、私は映画の本質的な面白さは時代も国境も越えるという信念を持った観客だけれども、仮に現代の日本人が他国の観客よりもこの映画を豊かに噛み締めることができるのだとすれば、それは私たちが福山の音楽家としての履歴を少なからず知っているからに違いない。音楽家でもある福山は、時間と精力のリソースの多くを職に費やすがゆえにギター演奏などという趣味を持っているようには見えない良多というキャラクタを演じ(同時に、彼はまた息子にピアノを習わせ、自らも加わって連弾をしてみせもするが)、しかしそのギターは決して奏でられることなく、あろうことか突如として銃器に変貌し、生まれてこのかたまったく時間を共有してこなかった親子を強固に結びつけてしまう。このような複雑きわまりない一瞬間を実現できる装置こそが「映画」と呼びならわされている何かであり、その複雑さを十全かつ瞬間的に呑み込めるのが現代日本の観客に与えられた特権であると認めるにやぶさかではない。
さて、二点目は「ディジタルカメラ」だ。これも終盤、今まで息子だと思っていた二宮慶多と別れて暮らし始めた福山が何とはなしに(二宮に譲り渡そうとしたが断られた)ディジタルカメラを操作していると、不意に二宮が撮り収めていた福山の画像が現れ始める。いっさいの誇張を交えずに云うが、これほど感動的に小道具としてのディジタルカメラを使ってみせた映画は空前絶後だと思う。というのは、これがフィルムカメラおよび印画紙に焼き付けられた銀塩写真では絶対に再現不可能の感動だからだ。ただ釦を押すだけで、質量すら持たない単なるディジタル情報としての画像が次々と現前する。そしてその画像は、それまで福山が気づいていなかった自分に対する「息子」の視線を完璧な仕方で定着させている。この卓抜な小道具の用法と独創的な視線演出を備え持ったシーンに至って、ついに嗚咽を堪え切れなくなった者は福山や私だけではないはずだ。
(*)このような「非-本来的な使い方の小道具」については『カールじいさんの空飛ぶ家』についての拙稿でもう少し詳しく述べてあるので、気が向いた方にはご参照いただければと思います。
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