[コメント] ハンナ・アーレント(2012/独=イスラエル=ルクセンブルク=仏)
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暗闇に浮かび上がる車のヘッドライト。置き去りにされた懐中電灯。暗い部屋でタバコに火をつける女。夜景。映画は、暗闇に浮かぶ僅かな光を繋いで始まる。
私はこれを、ナチス時代の暗喩だと思って観ていた。暗黒時代に僅かな希望の光を頼りに生きていく。実際、劇中でも「暗黒時代」と呼んでいるので、あながち間違いではないのだろう。 しかし終わってみれば、主人公が論文を発表した後の暗喩のように思えてくる。 彼女の置かれた状況は、まさに闇の中で僅かな光を探るような状態なのだ(それはエピローグでも紹介される)。 そして我々は気付かされる。彼女を非難する大衆が、ナチのファシズムと何ら変わらないことに。
人は何かを説明(説得)しようとする際、論理を組み立て、理屈で理解させようとする。 しかし、受け手の多くは感情で受け入れる。ここに大きな齟齬がある。
働きアリの集団の約2割が働かないという研究成果があるが、私はこれを(2割より水増しして)4分の1理論と呼んでいる。どのジャンルにおいても、25%のトップランナーがいて、25%の箸にも棒にもかからない底辺層がいる(誤解のないように言っておくが、同じ人でも、ある分野ではトップ層、別の分野では最下層足りえる。決して個人の資質を差別するものではない)。 問題は残り50%の凡庸な中間層だ。これが“大衆”であり“愚民”なのだ。ハンナ・アーレントが言う「思考停止」の人々だ(私は、思考停止ではなく、自分の半径1m程度しか視野のない人々なのだと理解している)。これが最も悪質なのだ。
村上春樹が「1Q84」でリトル・ピープルとして提示した正体不明の悪。それはジョージ・オーウェル「1984」のビッグ・ブラザーではない。“独裁者”や“悪魔”、“権力”といった分かりやすい絶対悪ではなく、思考を停止して感情だけで動く(当人は思考しているつもりでもその多くは感情に支配されている)凡庸な大衆という正体不明の悪。実にこれが世の中の半数を占めている。
ドイツ映画は感情的に分かりにくい作品に出会うことがしばしばあるのだが、この映画は、実に分かりやすく丁寧に、現代社会に必要な考え方を提示してくれた映画だと思う。あれはいい講義だった。 ハンナ・アーレントみたいな人がいたら、『私は貝になりたい』のフランキー堺もなんとかなったろうに(<何の話だ)
(14.01.19 吉祥寺バウスシアターにて鑑賞)
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