[コメント] 罪の手ざわり(2013/中国=日)
誤解を恐れずに書けば、持たぬ者や、虐げられた者にとって、暴力は最後に残された自己救済のための武器である。ただし、それは自爆による現状破壊でしかなく、負としての救いしかもたらさない。それでも、その隘路を歩まざるを得なかった者たちの話である。
あるいは、図らずも富が生む不条理によって、移動を強要された者たちの話でもある。
怒りの果ての移動としての北京行きを阻止された炭鉱夫は、街中を悪退治の英雄となって徘徊し、彼によって主人から解放され自由を得た馬は、無人の馬車をコトコトと引きながら移動を始める。
感情を封印し無表情という仮面を着け強盗行脚を続ける出稼ぎ男は、移動から解放された束の間の帰郷の安息に、幼い息子の手を引きながら、感情の封印を解くように夜空に拳銃の花火を放つ。
新幹線によって不倫相手との物理的距離を縮めたであろう風俗サウナの受付嬢は、失意のなか辺境の実家へと流されるように移動し、テレビに映し出される不倫先への移動手段である新幹線の衝突事故を見る。
南の港町のその先に、海外を見据えて移動してきた若い工員は、金のために「個」を捨てた接待嬢たちの吹き溜まりに遭遇し、再び刑務所の塀を彷彿とさせるコンクリート製の工員寮で移動を終える。
急激な分配格差の拡大は人を追い詰め、人はゆらゆらと不安定な移動を始める。不条理のゆらぎが飽和点に達したとき破裂する感情は、いつの時代においても、どんな社会体制においても変わらない。つまり我々も同じ暴力の病巣をかかえているということだ。
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