[コメント] フライト・ゲーム(2014/米=英=仏=カナダ)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
・搭乗や手荷物調べの際の、各登場人物の個性(女子大生、医者、或いは破産者専門の弁護士。「仕事の腕は良いのか?」「何故?破産でもしたのか?」)を短時間で描き観客の記憶に残らせつつ捌いていくその職人的な手つき。離陸する際の会話を通して伏線を出すと同時に主人公とヒロインの背景を説明してしまう手際のよさ。
・飛行機に乗る際、女の子が乗るのをためらう。ここできっちり動かない足下と入り口のショットを撮り、飛行機に乗るのが怖いと言わさない。そしてこのシーンの前に女の子が落とした人形。これはニーソンと女の子(とCA)を引き合わせるための逆算的要請であるが、こうした逆算的発想は爆弾の隠し場所から娘のリボンといった小道具、或いは娘を喪失しアル中と化した主人公やジュリアン・ムーアなど人物設定にも及ぶ。
ムーアの手術跡、或いはトイレでの格闘の際に割れたガラス(歪む主人公の虚像を通して彼が犯人かもしれない、という疑念を駆り立てもする。1ショットに二重三重の映画的重層性を含ませる見事さ)、ひびの入った携帯、更に崩壊する機体、もしくは人物間の不信といった「亀裂」はラストで明確に主人公のトラウマの克服と結びつく。傷付きつつも、懸命に職務を遂行し、視覚的(爆弾のありかは粉を「掻き分け」る!)に真相を暴いていき、そして守れなかったもの(もしくは一度逃げ出したものへ)をもう一度守り通す(対面する)。単なる「物語」の映画化ではなく、映像を通すことで重層性を編み込もうとする、その頑張り。
・戦闘機が登場する際の、カメラが通路を横に移動しながら客席の窓の外の戦闘機を追っていくショットも実に盛り上がる。この監督は映画を一気に盛り上げる1ショットをどう挿入するか、その勘所を心得ている。この視点が素晴らしいのは、まず「音」から入り、乗客が遮蔽板を開け戦闘機を目撃することによって、観客との視点的シンクロが生まれるためだ。この「遮蔽板を上げる」という行為がなければ大違いの視点なのだ。
・アクションに関しても狭いトイレでの格闘から、乗客数人を巻き込んでの実に馬鹿馬鹿しい大乱闘(ヒッチコック『間違えられた男』の喧嘩を想起させもする)、酸素呼吸口をナイフでの格闘に応用する様、どれもバリエーションがあり考えられている。拳銃が乗客の足元に転がっていく。それをどうするのか、という小さなサスペンス。最初に一番の味方を主人公自らが殺害することで誰が犯人なのか、協力的な人物ですら信じられなくなる大きなサスペンス。大小のサスペンスで揺さぶりをかける様も見事である。
・20分というタイムリミットはエピソードの断片化に一役買い、荒唐無稽さに拍車をかけると同時にそれを正当化したりもする。機内を舞台にし、最後に人が一人死ぬ20分の短編 が3連続するオムニバスのような前半。これにより観客は、次はどうなる?と否応なく引き込まれることになる。
・飛行機が無事?に不時着して一つの物語が終わる。そして乗客の女性の一人とリーアム・ニーソンとの間に新たな物語が始まりそうな予感を漂わせてエンドロールへ。ここで2人から滑走路、空港の俯瞰へと舞い上がっていくクレーンショットでもあればなお良かったのだが、それにしてもこういう粋な終わり方は最近では滅多に見なくなった。
辻褄やトリックのずさんさを指摘するだけなら容易い。無論、不満点もあるのだが、『蝋人形の館』や『アンノウン』といい、コレット・セラはとても頑張っている。紛れもなく「面白い」アメリカ映画、普通に「面白い」アメリカ映画の現代における貴重さを噛み締め、愉しもうではないか。(2014年9月6日投稿)
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