[コメント] コミック雑誌なんかいらない!(1985/日)
時代を描きたい皮肉りたいという裕也さんの気持ちは俺もバンドで作詞を担当する身なので良く判るし、ワイドショーも嫌いなので多分に共感出来るテーマであるのだが、彼の選ぶ「映画的語彙」にはハッキリ云ってセンスがない。彼は’60年代にディランが歌ったような「プロテスト・ソング」を志向しながら、実際はキャバレー歌手が居酒屋で歌うような「ティピカル・ソング」(時世歌)を録音し、掻かなくてもいい赤恥を掻いてしまっているのである。「時代の歌」とは、その時代のキーワードを羅列して作るのではない。その時代特有の空気・社会心理をより普遍的・一般的な言葉に置き換えて、歌われるべきものである。
センスのない語彙とは、具体的には『十階のモスキート』のパソコン、竹の子族、本作のディスコ、スタンドバー、テクノミュージックなどのことだが、そういった時代の風俗は其れこそ単なる「背景」として捉えられるべき(*)ものであって、画面の中心に持ってくるべきでない。そんなことをしたらそれに釣られて映画全体まで安っぽくなってしまうのは自明の理である。カメラにはその時代を体現する「人」さえ映せばいい。「時の人」さえ写せばこの映画の目的は果たせたはずだ。この映画の全体的に引き気味のカメラはその全部に於いて間違っている。背景や位置関係ばかり写そうとしては駄目だ。「内幕モノ」を意識しすぎてはいけない。カメラに裕也さんと取材対象の人物さえ映っていれば、他にはモザイクが掛かっていてもいいくらいのはずなのだ。
そもそも、こういった実験的な素材を何故、クソマジメな滝田洋二郎のところへなど持って云ったのだろう。如何にも自称ヌーベルバーグ好きの大学生が作りました、ってな中途半端な前衛さ。明確な意図を持たず場当たり的な効果だけを期待して、他人のスタイルを模倣しただけの「前衛表現」など、クソ程の価値もないのである。
最期のたけしのシーンの魅力も、単にたけしのアップやバストショットが多いからというだけで、それは役者たけしの魅力であり、存在感の賜物である。通路が狭かったことが幸いしたんだろうとしか思えないところがかえって哀しいくらいだ。音を消してみたり、スローモーションを使ってみたりと、演出側の小手先の技巧は全て余計だった。
*例えば、同じ夜見た北野武『その男、凶暴につき』には、ディスコ、喫茶店のゲーム筐体などが登場しているが、カメラはけっしてそれに目を向けようとはしない。ディスコで踊るおねーちゃんも映さなければ、ゲームの画面も映さない。たけしを撮っていたら、勝手に映りこんでしまった、という風である。だからキタノ映画は陳腐化しない。少しも色褪せない。
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