[コメント] 妻(1953/日)
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『めし』『夫婦』と共にナルセの倦怠期三部作と呼ぶらしい。それなら普通、三作目に解決編を持ってきそうなものだが、前二作と打って変わって何の解決もなく放り出す本作は、回を重ねて煮詰まりましたと云っているようで、実にナルセ的(三作並べると上原謙が女房を次々取り替えている具合であり、浮気噺の本作の外延として奇妙に効いているように見える)。千葉早智子との離縁を引きずっていたに違いないと思われる。
高峰三枝子の変な女房は渋谷の『自由学校』(51)が強烈だったが、本作も滑稽だ。私は再見で、彼女が妻楊枝替わりに箸を使うシーンだけ覚えていて、やはりここが一番極端なのだが、他も同様の小ネタが連発される。横で煎餅齧られて不貞寝する上原も狭量と云えば狭量に過ぎる。何でもネガティブに受け取り合う関係なのだ。
夫の心が判らないと愚痴る高峰に「私、心なんてそんな重大に考えないわ」と妹の新珠三千代は云う。「心なんて頼りないから、(神社とか教会とか)形式が必要になるのよ」。林芙美子が本作で云いたいのはここなんだろう。いやそれは正論だが、重大に考えざるを得ないのだと。この頼りない心だけが高峰の居場所を保障する存在証明なのだ。そして「女三界に家無し」の不安が後半を濃密に覆っている。高峰は外を放浪して周り、諦めて家に帰ってもそこはまるで外にいるようなのだ。
丹阿弥谷津子の造形が巧み。大阪での上原との再会に子連れで現れる辺りに、上原との浮気の温度差が絶妙に出ている。路上で丹阿弥が子供のほうへしゃがみ込むと、子供は喫茶店の椅子に座っている。上原が喫茶店で時計を見上げると、高峰の実家の柱時計が映される。上原と高峰は別の場所で中北千枝子自殺の新聞記事を読む。こういう編集の妙が厭味なく織り込まれている。
前半の伊豆肇の自暴自棄も印象的。私的ベストショットは彼に詰られ泣く中北に寄り添う高峰を捉えたカット。ここを始め、隣室だけ灯りがついている和室が何度も捉えられ、その微妙な照明が家のなかを異界のように見せている。大雨が降ったら池になりそうな低地の住宅街も効いている。
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