[コメント] ある精肉店のはなし(2013/日)
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本作はひとつには、部落解放運動の成果を届ける作品である。この主題は当然に運動の話になるのだから、どんな怒り炸裂のシーンが展開されるのかと多少怖れながら観たのだが、正反対だった。長兄の、地方のインテリ然とした穏やかな佇まいは、彼が運動の中で人格を陶冶した人であると語っているし、家族の明るさもそうだろう。
いつも鉢巻をしていたという寅さん系の父親が彼等の回想によって召喚される一方、地区外の娘と結ばれた息子の結婚式がクライマックスとして楽しく語られる。小役人として同和行政に末端で携わった者として、こんなに現状は明るいのかと嬉しくなった(本作の協力団体である解放同盟の施策に私は全面同意はしていない。全解連についても同様だ。こういうことを断らねばならないのが不自由で仕方ないのだが念のため)。
神仏習合による穢れ思想の制度化がこの差別を生んだ(獣魂碑の前で念仏あげる坊さん(真宗らしかった)はどういう認識なんだろう)。この件に関しての発言を注目していたのだが、本作では過剰な意味づけが排されている。長兄は講演のなかで「ひとつの職業なのに」と語り、次兄は学校での太鼓張り教室の経験から「命に生かされているのを知ってほしい」と語るが「捌いた後は物として見る」とも云う。現場の職業人としての意見だが、「過剰な意味づけ」に対する警戒心というものも感じた。
人間中心主義を批評したデリタは晩年「いかに(生物を)正しく食べるべきか」のアポリアを問うた。ここに穢れ思想の歴史を含めればさらに事態は難問となるだろう。私に判る訳もないが、動物を差別しないために人間が差別されてはならないのは当然だと思う。
好著である岩波新書「屠場」の著者鎌田彗が本作の「応援団長」。協力者に田中優子の名前があったのは彼女が江戸学者だからだろうが、永六輔は何をされたのだろう。
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