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[コメント] 寝ても覚めても(2018/日)

寝ても覚めてもこの映画の褒め言葉を考えていたら、長大な悪口になっちゃった。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







濱口竜介という監督がどういう作風なのか分かりません。何を描こうとしているのか、どんな特徴の作家なのか、全然知りません。ただ一つ言えることは、彼の(小説家で言うところの)文体は、私はあまり好みではない。 いるんだ、評論家受けはいいけどどうしても肌の合わない作家が。古くは相米慎二とか、最近なら石井裕也とか白石和彌とか。

いや、正確には、相米慎二とか石井裕也とか白石和彌とかは観ていて嫌になったり不機嫌になるんですが、この映画はそんなことはなく、飽きないし画面に見入ってしまう。時折入るトリッキーな撮影もそれほど嫌じゃない。麦がパンを買いに家を出る変なカメラ移動とか、宮城での打ち上げの変な朝子視線カメラとか。変だけど、意味や意図が分からないわけじゃない。思い切った横移動とか、思い切った引きの画とか、真正面から捉えるショットとか、画面の力を信じている演出のようにも思える。

だけど、気持ちが動かないんだよなぁ。

我が家で議論した結論は「朝子と麦が出会った時点で気持ちが乗らなかった」点にあるだろうと。 私は「運命の男に出会って魅入られた物語」として『溺れるナイフ』を思い出したんですが、出会ったシーンで菅田将暉に惚れちゃったもんね、俺が。『溺れるナイフ』の菅田将暉には(本人もすごく意識したそうだが)一目惚れさせる説得力があった。東出昌大の説得力は麦再登場の黒沢清ばりのホラー感しかない。いや、あのホラーシーンは面白かったよ。

出会いの時点で“運命の二人”感が理解できず、それでもバイク事故シーンで二人の絆が切っても切れない関係になったことが充分に伝わり、納得したんですね。気持ちではなく頭で。 ところが東京編になって視点が変わってしまう。亮平視点で映画は構成され、朝子の気持ちの流れは一切描写されなくなります。亮平が階段から朝子を見下ろすカットはあってもカメラが切り返すことはない。 フランソワ・オゾン『まぼろし』、江津直江『落下する夕方』、山戸結希『溺れるナイフ』、いずれも過去の男への想いを断ち切る過程が作家の腕の見せ所なのに、この映画は(原作がそうなのかもしれませんが)朝子の気持ちを完全にブラックボックスにしてしまう。 それならば、ブラックボックス中のタスクが発動するトリガーの登場をヒヤヒヤしながら観る映画なのかと思いきや、5年後と称して(我らが伊藤沙莉先生と再会した辺りから)再び朝子に視点が戻ってしまう。

これは確実に意図された演出だと思われるのですが、私はその意図が分からない。 これ、冒頭から私の気持ちが乗っていたら気にならなかったかもしれません。でもやっとこさ、気持ちじゃなくて頭で二人の絆を理解し始めたところで、二人ではない別の第三者視点で語られ始める。 そしたらもう、『溺れるナイフ』では完全に小松菜奈ちゃんの気持ちになっていた乙女な私も、この映画の朝子は赤の他人。「いるいる。こういう控えめ風で実は自分を曲げない面倒くさい女」と完全に冷めた目で、面倒くさい女扱い。

むしろグッときたのは山下リオで、瀬戸康史の言葉を通して監督の「演技論」を語る当て馬に使われてただけに思われたのですが、終わり際にやっと必要性が出てきて、タクシーを追うシーンでグッときた。

黒猫チェルシーの病気に何の意味があるんだろう?と思ったんです。 そこで瀬戸康史に思いが至ったんですね。彼は役者の道を諦めている。山下リオも同様です。病気になった渡辺大知はもちろん、皆が青春の時間を既に失っている。 でも主人公の女性だけ、あの青春の一コマに縛られている。

この映画、恋愛映画としては私は納得していないんですが、「青春という時間を失っていく物語」と捉えると少し納得がいく。要するに『八日目の蝉』なんですよ。

余談

以前も書いたけど、伊藤沙莉は樹木希林になれる逸材だと思うんだよなあ。

(18.09.16 テアトル新宿にて鑑賞)

(評価:★3)

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