[コメント] ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん(2015/仏=デンマーク)
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というのは当然ながら逆説的な物云いである。いっさいの不足を覚えさせることない達意のストーリテリングが八一分間の劇映画を無欠に完結させている。サンクトペテルブルクから港への旅や、港の食堂における一ヶ月間の労働など、歌曲に乗せて時間を圧縮するのは紋切型の方法と云ってよいが、勘所を押さえたカットの運びが実に小気味好い。
尺をよく制御できたことについては、この映画が決定的なワンカットを描く力を持っていたことも与るだろう。決定的なワンカットとは、たとえば序盤、ダバイ号の再捜索願をすげなく斥けられ、父親にも手酷く叱責されてからのサーシャを描いたシーンにある。雪の舞う夜更け、露台に佇む彼女の顔面のエクストリーム・クロースアップが、まぶたの開閉と視線の上下でもって彼女の「決意」を余すところなく描き切っている(※)。「これからどれほどの艱難辛苦に襲われようとも、彼女は決して挫けない」ことを全観客が諒解するだろう強度の決意である。このようなカットを持てなかった映画は、決意の強さを根拠づける挿話を得るためにさらなる上映時間を費やさなくてはならないだろう(もしそれすらもしなければ、以後の「挫けない」ことが胡散臭い絵空事と化してしまうにちがいない)。
決定的なカットということに関しては、ぜひ次にも触れておきたい。終盤、サーシャと祖父の「別離」を描いたそれだ。サーシャはようやく発見した氷漬けの(!)祖父の隣に腰を下ろし、彼と同じ方向に目を向ける。ところがほどなく、ちょうどふたりの間で氷河に裂け目が走り、割れた氷塊に乗った祖父は(むろん彼自身は微動だにしないまま)滑らかな移動ぶりでサーシャから離れていってしまう。ちょっと目にしたことのない、恐るべき別離のイメージだ。
今さら取り立てて云うまでもなく、すべての優れた映画はアクション映画と呼びうる。この意味のアクション映画にとって、被写体の動作量の大小は問題とならない。問われるのはただ動作の質である。「洗練された単純」を究め、全篇にわたって任意の一齣を取り出しても鑑賞に堪えるだろう絵柄を持つ『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』にしても、その核心にあるのは動作の質を高める演出の追求だ。
(※)「日本人にとっては目が、欧米人にとっては口が、他者の表情を読むこと、自らの感情を表すことにかけて重んじられる部位である。いわゆるエモーティコン、顔文字の発達ぶりにもそれは顕れている」などという説も仄聞するけれども、件のサーシャや、『ウォレスとグルミット』のグルミット、『WALL・E ウォーリー』のウォーリーなどを想い起こす限り、アニメーションにおいてもそれが遍く妥当するかはずいぶん怪しいでしょう。
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