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[コメント] ミッドサマー(2019/米=スウェーデン)

狂気とは確信である。当事者には忌避される理由がわからないから隠そうともしない。全てが開けっぴろげに晒される。闇がない、白夜。聖域がない。壁がない。同じ共同体の暴力でも、空間の扱いについて、幾多の壁で仕切られる『ローズマリーの赤ちゃん』の都市的空間(聖域の集合体)との対比から見ると前半は面白いが、後半はそのコンセプトと矛盾していく。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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監督は、自分の中で重要な作品として『ローズマリーの赤ちゃん』を挙げているそうである。この投稿を考えてから見つけたのだが、それはそれとして。

味覚、嗅覚、視覚、嗅覚、触覚、セックスの面を相手に強いて自らに取り込む共同体の暴力。物語の仕組みは『ローズマリーの赤ちゃん』に相似。つわり(拒否反応)を示しながらも共同体に安らぎを見出してしまい微笑むのも同じだ。異なるのは開放的な空間の扱い。特に老人の崖からの飛び降り自死がさっぱりと当たり前のように開陳されるのが一つのピーク。秘匿された密室の集積体としての都市空間で濃縮されていく共同体の狂気を扱った『ローズマリー』が対比的・批評的に意識されており、しかもうまくいっている。共同体の狂気のもう一つの形は、境界を排除して世界に拡散する「確信」なのだ。この共同体には「他者」がいない。壁がない。おぞましい「シンクロ」「一体化」のイメージ。この辺りは面白い。

ただ、後半の失踪や殺人が従来的な「秘匿」のサスペンスの感覚から逃れられない形で描かれており、「壁」を介した描かれ方に堕してしまい退屈になる。罪悪感がないのだから、死体は隠す必要がないはずなのだ。どこまでも開かれた空間で、簡単に逃げられそうなのに逃げられない、狂気が全て白昼にさらされる「開示の狂気」を徹底して欲しかった。「種付け」のシーンも、「生贄」のシーンも、澄み渡った青空の下で行われるべきだったと思う。

フローレンス・ピューはなんだか観ていてシクシクと心が痛む。良い意味で意地悪なキャスティングだと思う。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)おーい粗茶[*] ぽんしゅう[*] disjunctive[*]

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