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[コメント] 37セカンズ(2019/日=米)

障害者は「不便」だが「不自由」ではないと乙武洋匡は自著「五体不満足」で書いていた。不便は社会的な仕組みや設備の改善によって「便利」に置き換わるが、我が身にふりかかる不自由を解消するためには自らが主体となって「自由」を獲得しなければならない。
ぽんしゅう

それは身障者に限ったことではない。車椅子を使っていようが、いまいが同じでしょ、とHIKARI監督はさらり示唆し、気づかせてくれる。

主人公のユマ(佳山明)は、身体的な障害のために、家庭的にも、職業的にも恵まれない弱者なのだと、私のような健常者はすぐに誤解してしまう。確かに彼女は身体的なハンディキャップのために生活するうえで様々な「不便」に遭遇するのだろう。だがそれは、あくまで「不便」さであり、社会環境や補助機器といった生活インフラの整備と、周りの人々の少しの気づかいがあれば改善される問題だろう。

一方、ユマが直面している家庭的、職業的な「不自由」さ(生きづらさ)の原因は身体的ハンディキャップだけではないはずだ。自立や職業選択の問題につまずき、悶々とした不自由さを感じるのは、なにも身障者だけではない。家庭環境や経済状況、人間関係に翻弄され「不自由」を強いられる健常者だって(もちろん身障者も)いくらでもいる。

私たちが望む不自由の裏返しとしての“自由”は、不便の裏返しである“便利”さとは異なり、個人の意志のありようのことであり、誰かから与えられ受動的に受け入れるものではない。身障者だろうが、健常者だろうが「不自由」を解消するためには、ユマがそうしたように「不」を取り除くために、自らが行動を起こさなければならないのだ。

映画の後半、私はユマ(佳山明)が障害者であることを忘れていた。目をしばたたかせながら、か細い声で懸命に大人の世界への脱皮を試みる、いささか奥手の23歳の女性の青春ドラマを観ながら、そんなことを考えた。

※「障害者」及び「健常者」という表記について。表記方法や単語自体に異議を唱える人たちがいることは承知していますが、私の認識かいまだその方々のレベルを是とするまでに至っていないこと、さらに本作の公式ホームページでも当該の単語が使われていたのでこの表記を使用しました。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)ひゅうちゃん [*] けにろん[*]

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