[コメント] はりぼて(2020/日)
だって、この恥知らずどもの大量生息を許しているのは、まぎれもなく有権者である我々であり、こいつらの醜態は我々が排泄した「甘え」の具現にほかならないのだから。我々がひり出した排泄物の始末は自分たちでつけるしかないのだ。
このドキュメンタリー映画の責任者であるテレビ記者(五百旗頭幸男と砂沢智史)は、議員たちに膿を出し切ったらどうですかと「言葉」で迫る。たぶん、この恥知らずな議員たちは、自ら膿を出し切ってしまうと自分たちの存在が消えてなくなってしまうことを、本能的に察知しているのだ。それほどこいつらの正体は腐りきっている。
記者は、これ以上「言葉」で糾弾しても、彼らは不正を“やめられない”ことに薄々気づいているのだろう。だからだろうか記者は、彼らも“人間くさくて憎めない”人たちなのですという甘えに逃げてしまう。あるいは百歩譲って、逃げたように見えてしまう。そんな遠慮は必要ない。
作者たちが、ドキュメンタリー映画の“鉾”は「言葉」ではなく「映像」だということにもっと自覚的であったなら、容赦ない「映像」の鉾で、この恥知らずな田舎議員どもを串刺しにして、奴らの息の根を止めてしまうこともできただろう。それがドキュメンタリーが「武器」となる所以であり、テレビ記者とドキュメンタリー作家の志の違いだと思う。
この恥知らずどもの醜態は、まだ問題の入口にしか過ぎない。腐れ体質を蔓延させた根本がどこにあるのかを知りたい。おそらく、それはひとつではないだろう。ぜひ、五百旗頭幸男と砂沢智史には「映像」を武器に、富山に自民王国が生まれた経緯を日本の地方政治という視点で掘り下げる「はりぼて歴史編」と、後援会制度(利権)の仕組みや無党派もしくは同調派の意識を掘り下げた「はりぼて有権者篇」を撮って欲しい。
その覚悟の先に、記者(ジャーナリスト)ではなく作家(ドキュメンタリスト)として、日本の政治を俯瞰的にとらえた「武器」としての映画が完成するはずだ。五百旗頭幸男と砂沢智史に、その責任をまっとうして欲しいという願望と、テレビマン(サラリーマン)の限界に挑戦した「意志」に敬意を表し★4を付けました。
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