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[コメント] Swallow スワロウ(2019/米)

他人の身体、消化器官としての「家」(社会)。対して「異物」としての主人公。異物のままに排出され、何ものにも包摂・消化されず、異物のままに生きるということ。一見スリラーのフリしたフェミニズム映画に見えるのだが、実はそれにすらも背を向けている孤高がある。身体性とテーマを重ねた演出はこの点、一貫して見応えあり。私のこころも体も、私のものだ。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ラストの中絶は、宗教的バックグラウンドを踏まえて主人公を中絶しなかったという母や社会の反駁であるし、最近のあちらの判例を踏まえればかなり攻撃的な結論だが、この物語はその妥当性を問うとか、「受け入れられる」とか「理解出来る出来ない」みたいな浅はかな「理解」など歯牙にも掛けていないように見える。むしろそれらの否定がここにあるように思う。

主人公は、当初は「家」に消化されるような振る舞いを続けるが、違和感をどうしようもなく、異食症発症後は安易に理解されることを拒む。ここでの「理解」や療法、当てはめとは社会という消化器官による消化・包摂・支配であり、一つの暴力として語られる。消化されずに排出された異物へのシンパシー、「自信が持てる」とは、消化・包摂=理解の否定であり、異物とは鋭利な輪郭を持ち続ける人の象徴でもある。

もちろんこれも「理解」の一つだから、大きなことを言えた立場ではないのだが、トレンドとして多様性やフェミニズムが叫ばれる中で、にわかめいた上っ面な言説よりも、こういった孤高に「ほんとう」「救い」を感じて癒される、ということもあるのではないだろうか(フェミニズム一般を否定しているのではありません。一部の歪んだムーブメントとその反応を見て違和感を覚えている当事者がいるのだとすれば、そのような人にこそ届く物語のように思うのです)異物は異物として生きればよいのだと。認められる必要などない。私のこころも体も、何ものにも(「フェミニズム」にすら)とらわれ消化されない、私自身のものなのだ。

女子トイレの定点カメラは、異物を宿したまま、異物を所与のものとして生きる、恐ろしさではなく、隠された「誇りの種」を描いているように思う。

演出上は、曇り空をバックにしたベネットの所在なさげなカットからすでに不穏と違和感、異物としての捉えが徹底されており、無駄がない。異物に対比しての消化器官としての「家」(茫漠として、飾り立てても満たされない胃袋)の描き方も良く、「家」の映画とも言えるだろう。人物造詣としてはシリア出身の看護師がいい。彼も言わば異物であり、異物としてのシンパシーを感じたのだろう。彼がベッドの下でベネットを襲う流れにならないのはホッとさせられる(彼はいい人だ)のだが、それすら拒絶する厳しさがこの映画の良さのような気がする。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ゑぎ[*] けにろん[*]

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