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[コメント] ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(1975/ベルギー)

一人で家事をこなす屋内空間。言葉は消滅し生活音だけが響く。息子との会話も最小限。頻繁に点灯消灯される室内照明が彼女の孤独を饒舌に示唆し、朝と夜に差し込む外光が時の動きの気配を伝える。これがシャンタル・アケルマンが主人公に与えたプライベート空間だ。
ぽんしゅう

その空間はワンルーム・ワンシーン・ワンショットで厳格かつ執拗に反復され積み重ねられていく。反復としては衣類やテーブルクロス、シーツといった布を丁寧にたたむ行為も印象的だ。主人公のジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)は、そのルーティンが強いる拘束感に気づいていない。むしろルーティンに没入することで進んで拘束感を無意識に増殖させて、ある種の困難から逃避しているかのようだ。困難とは、変化することへの自己努力や、変化を阻む外圧のようなものだと思う。彼女が外出し町の人たちとの接点をみせるとき、ほんのわずかだが(私たち観る者に)安堵と希望が生じるのがその証だ。

書こうとしても書けない手紙。手慣れているはずの料理の失敗。泣き止まない赤ん坊。コーヒーの味の異変。靴磨きも食器洗いもいつもと違う。そんな屋内ルーティンの違和の連鎖が起きる。さらに郵便局は休みで公衆電話は故障。カフェのいつもの席には先客。お気に入りのボタンも手に入らない。かすかな救いのように見えていた外出先でも不運が続く。ある種の困難から逃避していたはずの「日常」をじわじわと引き裂いていくような不穏な兆候の連鎖がスリリングだ。

シャンタル・アケルマンは25歳でこの作品を撮ったという。そのとき彼女が置かれていた窮屈さを衆人に納得させるための必然として、この3時間20分に凝縮された執拗な「行為」の反復が必要だったのだろう。2015年に実母のドキュメンタリーの編集中に母親が亡くなり、アケルマンも作品の完成後に65歳で亡くなったとのこと。本作から40年後。ルモンド紙は自殺と報じたそうだ。

余談です。ダイニングのテーブルには二脚の白い椅子が置いてある。ときどき右側の椅子がなくなり一脚だけになる。朝、このテーブルで息子が朝食をとるたきには二脚になっている。これが何の説明もなく繰り返される。息子と二人で食事をするリビングのテーブルには椅子が一人分しかなく、夕食のたびにリビングに移動しているのだろうか。注視していたら、最終盤に近いリビングのソファにジャンヌが座っているショットで、夕食時に使うテーブルには椅子が一脚しかないように見えた。この解釈で合っているのでしょうか。分かる人がいたら教えてください。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)irodori[*] ゑぎ[*]

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