[コメント] コクーン(1985/米)
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外見は人間と何ら変わりなく見えるその一皮を剥けば、光輝を迸らせて軽やかに宙を舞う精霊的な存在である異星人。その、輝かしいと同時に恐ろしくもある異形に漂う超越性と、そんな彼らとすぐ仲よくなって、チェスに興じさえする老人たち。それは、老人たちもまた、しわしわの皮膚つまりは肉体を捨てて彼岸にもうすぐ向かおうとしている存在であるが故の達観なのか。一方で、船を貸していた青年は、異星人の正体を見て逃げ出すし、恋人のような関係になった異星人に対しても、人間の皮を脱がないように頼む。
過去に地球に残った異星人らの生命維持装置である繭(コクーン)が海の底にあることと、最後に宇宙船が老人たちを、海の上から船ごと引き上げて「昇天」させるという、空間的対比。これはまた、不老不死に近い異星人らが地球の海の底に再び戻される一方で、老人たちは彼岸の世界としての未知の惑星へ向かうという、居場所の交換でもある。老人の、若返りへの欲望のせいで、プールから出されてしまった繭の中の仲間が死に、初めて死の悲しみを知る異星人。その彼は、老人が口にした「永遠」という言葉について、「その意味は何だ?」と訊いている。彼は、死、限られたものとしての生を知らないが故に、自らが享受している永遠というものも理解していないのだ。
異星人は、彼岸の世界から到来した天使のような存在でもあるが、と同時に、仲間の死を受けて自らが流した涙や、永遠という概念について理解が覚束ない、具体的な存在でもある。天使や精霊といった抽象的な存在ではなく、人類より高位でありながらもやはり身体性を伴った存在なのだ。この絶妙なバランスが、異星人と老人の交流に不思議な手触りを与えている。
彼岸へと躊躇いなく向かう老人たちの達観は、家族にも病院にも警察にも理解されない異常行動として追跡の対象となる。老人たちは殆ど地球上の人間にとって異星人なのだ。そうした中、唯一、普段から老人らと遊んでいた孫だけは、船に飛び込んでついて行こうとする。その彼が、母の呼び声に答えて再び海に飛び込む行為と、彼に浮き輪を投げてやりながらもそのまま船を進ませる祖父。この二人それぞれの「躊躇いのなさ」が生む感動。「浮き輪を投げる」行為は、これに先立って、宇宙人と知らずに彼らに協力していた青年が、その秘密を知って海に飛び込んで逃げようとするシーンで、宇宙人が行なっていた行為でもある。その反復が妙に感動的に思えたのは、地上に残される者たちにとっては死出の旅にしか見えない旅に向かう老人が、少年の命を守ろうとして行なう行為だからだ。「海」というシチュエーションは、繭を隠す場所、つまりは保護装置の保護装置といった意味合いを持つのだが、海に沈められるということは、地上の人間にとっては死を意味する。互いに理解者である少年と老人の間に引かれた境界線上のドラマ。半ば彼岸に足を踏み入れた老人からの「お前はまだ来てはいけない」という、愛情表現としての断絶。ラストでの老人たちの葬儀で牧師が説く彼岸の世界というものが、言葉だけの慰めではなく真の喜びを意味しているのを知って微笑むのは、ただこの孫だけなのだ。
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