[コメント] 告発の行方(1988/米)
女性が弱者と殊更強調するつもりはないが、この映画に関していえば、明らかにサラは、弱者であろう。強者である男たちは、サラを強姦し、囃したてとめようともしない。ケンだけが、嫌がっていることがわかり、しかし、阻止することもできず傍観している。
時に強者が、弱者の気持ちがわからないと思ってしまうのは、私だけだろうか? またまた、個人的なエピソードをいれて、私なりの見解を述べてみたいと思う。
私の父は、某国立大学の幼稚園から一流大学へと進学した為か、エリート意識の強い人間である。父は、高卒の母をどこか小バカにし、 母は「言葉の暴力をさんざん言われた」と、よく愚痴る。友達の旦那さんも、某一流大学の付属高校を奨学金を貰って卒業し、そのまま上の大学に進み、ここでも優秀な成績をおさめ、副総代で卒業したというエリートくんである。父と友達の旦那さんに共通するのは、あまり裕福な家に生まれてはいなく、周りのお坊っちゃんたちへのコンプレックスを抱えながら、一生懸命勉強し、一流大学に入り、実家が金持ちという女を自分の上昇思考を満たすことが本心の癖に、愛かもしれないと勘違いして結婚したことである。もちろん、愛は幻想であるから、数年後、妻である女をサディスティックなまでに罵る。「お前はバカだ」「お前は努力が足りない」「なんで、こんなこともできないんだ?」と。むろん女たちは、努力をして結果を残してきた 彼らの頭脳には、逆立ちしてもかないっこない。
母と友達は、大変よく似ていて、私から見ても、何故少しくらい努力しないんだろう? 一歩を踏み出せないんだろうと、イライラする時もある。しかし、セーリックマンの理論に当てはめて考えると、この二人を見事に説明してくれるのである。
セーリックマンの理論とは、ある部屋の中央に柵をして部屋を二つに分ける。柵は天井まであって、向こう側の部屋にはいけないようになっている。その片一方の部屋に犬を一匹入れ、犬のいる側の部屋の床に電気が流れるような設備をしておく。スイッチを入れると、犬は電気ショックを受けて飛び上がってしまう。しかしいくら逃げても、その床じゅう電気が流れているわけで犬が宙に浮けない以上電気ショックを回避することは不可能である。こういう状況を何回も何回も繰り返す。そしてある日、突然犬の目の前で部屋の真ん中の柵を取り除き、いつものように犬のいる方の床に電気ショックを流す。しかし犬は動こうとせず、うずくまって受動的に刺激に身をさらしつづける。この犬は、何を学習したか? それは絶望、別名無気力感である。(小倉千加子『セックス神話解体新書』から引用)
私は、この理論は夫に罵られる女だけに当てはめられる物ではなく、例えば子供の時から、勉強ができない、要領が悪い、口下手、容姿が悪いなど、マイナス要素を持つ人間をスポイルする理論としても適合するのではないかと思う。反対に、勉強ができる、処世術がある、弁がたつ、器量の良い人などは、元々備わっているモノだから、彼らが、何故不器用に生きているか理解できないのではないだろうか?
こうやって二項対立のまま生活していくと、強者は無意識に弱者を虐げていることになるのではないか、と思う。もちろん、自分の範疇外のことを考えるには、イマジネーションが大切であり、なかなかシンクロすることもないかもしれない。けれど「セックスすれば、女は皆ウハウハ喜ぶモノ」という固定観念で、レイプし囃したてた男たちにまざって、ケンだけが、サラの気持ちを察することができた。それはシンプルだけど、相手の立場になったんだと思う。だから、強者が弱者を理解することもできなくはないし、そうやって生きなくてはいけないのではと考えるのである。
ちなみに、私は一度として自分を弱者と見做したことはないが、 弱者に肩入れしたくなるのは、母の影響が大きいのだろう。
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