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[コメント] 悪は存在しない(2023/日)

映画では、(カットを)切ることは即ちそのまま繋ぐことだと、カサヴェテスの映画を見ていて思ったことはある。あるいはゴダールの映画でも、そんな「断面」の感触は確かにある。

この映画の大美賀均のその顔貌、もっと言えばその視線は、言わばそんな「断面」なのではないか。物語的な、背景的なものに向けられた此方からの視線の投影を甘んじて受けながら、同時に不可解な硬質な視線を此方に返し続ける。

ありがちな「ですます」調を排した言葉と、人と対峙しながらほとんど動揺しない視線が、その存在感の輪郭を際立たせる。人として振る舞いながら同時に物体的な何かででもある様に、彼はそこにいる。(しかし映画の、映像の中の「人」とは、本来は皆その様な存在なのではないか。)

カットとカットの断面が現実的な「意味」として通じるから、私達はそこに何かを観たという気にもなる。しかしそれは、現実の持続が「切られて」はじめて「繋がれた」虚構だ。この映画の中の虚構のなりゆきが、それでも辛うじて「繋がれて」見えたとするなら、それはそんな虚実の「断面」の様な大美賀均のその顔貌、その視線があったからではないか。

あるいは、現実には一見繋がらない意味を無理やりに繋いで見せてしまうのも映画の暴力で、だからそんな映画の暴力はその表象自体に於いて逆接的に私達の「現実」への批評ともなり得る。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)緑雨[*] ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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