[コメント] E.T.(1982/米)
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光といえば、E.T.の心臓の光はE.T.の生命そのものを、指先に灯る癒しの光は、本来遠い存在であるE.T.と少年たちの接触を表す。光の映画である『E.T.』、光の存在であるE.T.。日の出ている場面に入ったと思ったらすぐに夜の場面に切り換わるその徹底した偏執ぶりが微笑ましい。エリオットが仮病を使って学校を休む場面でも、すぐにブラインドを閉じて部屋は薄暗がりになる。
冒頭シークェンスでE.T.は夜の町の夥しい灯の輝きに見入ったせいで、宇宙船に置いてけぼりにされてしまうが、E.T.を含む異星人たちを脅かすのもまた、人間たちの車のヘッドライトや懐中電灯の光。宇宙船は当然のように色とりどりに光り輝き、E.T.が少年たちに、自分の帰るべき「home」としての空を指さす場面では、エリオットの横顔のアップの向こう側から照明が差し込む。だがまた、エリオットの家が宇宙服の人間たちによる侵入を受ける場面も、光の侵入という画になっている。脅威でもあり、魅惑的でもある光。いや、光が魅惑的なのは、そこに幾分か畏れの感情を抱かせるものが含まれているからなのだ。
対して、闇は、E.T.の姿を好奇の目から隠す保護膜でもある。だからこそ、エリオットと森に行ったE.T.が、エリオット共々命の危険に陥る場面では、身を潜める影もなく、血の気を失ったように白くなったE.T.の身体が光のもとに晒されるのだ。死んだはずのE.T.が唐突に復活するのも、大人たちがもたらした騒々しさと明かりとが去った、静寂の優しさによって復活したかに感じさせられる。エリオットの母が娘に読み聞かせていた『ピーター・パン』に於けるティンカー・ベルの復活の場面との照応も、エリオットが、大人たちの去った静寂の中にE.T.と一対一で居る画によってもたらされたと言える。
姿を隠す、という点では、自転車に乗っての逃走劇では、布を被せられたE.T.同様、少年たちもフードを被っている。これは、危険なチェイスシーンを撮るためにおそらくスタントマンを使ったからなのだろうが、少年たちとE.T.の一心同体な様子が見てとれて、演出的にも正しい。
父親不在のエリオット。だが最後にE.T.からの「come」という誘いに対し「stay」と答えて留まったエリオットは、「別れ」を自ら選び取るという形で、愛する者の不在に耐える力を得たのだろう。思い返せば、『未知との遭遇』では「父親」が異星人に魅入られるのだった。『E.T.』では、「10歳の時から彼(=E.T.)を待っていた」と告げる科学者キース(ピーター・コヨーテ)が、ピーター・パン的「子供」を内に守る大人として、エリオットらと大人との隙間を埋める。ラスト・シーンでキースがエリオットの母の傍にいることで、不在の父の場も彼が埋めることになるわけだ。
それにしても、全篇に渡って、ここは必ずしも要らないだろうというショットでまで、画面奥から強い光が射し込む画が現れ、「どんだけ光が好きなんだよ(笑)」と思わされてしまうが、そうした監督の稚気が僕には微笑ましい。僕も実際、ああいう画が好きなのだ。
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