[コメント] 楊貴妃(1955/日)
小津様式は、うごきの少ない画面の積み重ね(カット)によって空間性をじわじわと構築していくやりかたである。カットによって刻みだされていく時間は時に飴のようにのびちぢみをしながら(のびちぢみしていることは決して意識させないところがみそだが)巧妙に空間を自分の支配下におく。空間は時間に支配されることを宿命として受け止め、本来三次元であるものが視覚的に二次元化しつつ、時間に支配されやすい柔和な相貌となって収まりよく存在しようとする。このバランス感覚と空間の解体感覚が先鋭的で、絵画でいえばちょうどセザンヌからピカソにかけての空間把握のセンスだと思う。
例の有名な交錯しない視線という特徴は、丸く収まる事を強いられた空間の側からの唯一の(小津に許された)反撃の機会のようなもの思えばよい。あるいは空間が解体していることを空間が観客にたいして告発しているというべきか。一種映像が奏でる不協和音のようなものだ。その不協和の感覚は、20世紀芸術全般の底流にあるように私は思う。
これに比して、溝口健二は空間を形作る三次元のうちの一軸をどのカットにおいても強烈に印象付けることにこだわり続けた作家である。被写体(人物)と背景を単なる被写体と背景という関係ではなく、背景も含めたそのすべてが被写体であり、そのすべてを見る者の知覚に訴えることが映画芸術なのだという主張=しかけこそ、溝口の基本戦略であり、その基本戦略のもと採用された戦術があの長回しなのだと思う。長回しはドラマの流れを断ち切りたくないからやっているのだと、どこかで本人が書いていたと思うが、ドラマツルギーの次元では確かにそうだろう。しかし、そんな長回しなら他の作家もやる。作劇者ではなく、「映像作家」である溝口にとっての長回しの意味を読み取っておかねばならないと思う。それは空間に肉迫するための戦術なのである。
さて、彼が意識的に観客に強く意識させようとする空間の三次元のうちの一軸とは、ときに奥行きであり、ときに高さであり、ときに幅である。我々が画面の空間性を強く意識するとき、溝口作品は溝口作品らしくなる。空間は小津作品のように解体も切片化もされない。さまざまな工夫により全体性そのものとして見る者に提示される。線的遠近法や陰影による遠近法だけでなく、もちろんこれらの方法は使うが、パンやティルト、ドリー撮影やクレーン撮影など、キャメラの動きを使うことによって、エネルギーに満ちた空間の存在が際立ってくる。そしてその瞬間、我々は何かスクリーンに写されている画面が突如鳴動して信じられない次元を持っていることに驚愕するだろう。空間は人物の収まりどころを定める静的な座標軸ではなく、まるでスクリーン上でもう一人の登場人物のように振舞っているのを見るだろう。登場人物が動く以上に、登場人物を包む空間の動きが鮮やかである。空間の支配力は実に強い。この支配力の強さが、この楊貴妃もそうだが、芸者や遊女や人妻などの登場人物と彼ら登場人物を縛る因習や制度、貸借関係などの縛りあい、もつれ合いという、溝口作品のよく描くテーマに実に効果的に作用するのである。
優れた映像作家の仕事とは、結局、空間をどう捉えようとしたかという格闘の軌跡のようなものだ。そしてその捉え方は、必ず作家の作劇上のテーマと交響するのだ。
最後に、この映画の批評は実はここからなのだが、彼特有の空間把握が狂ったとしか思われない出来の悪さで、安っぽさが際立ってしまった。カラー映画であることがかえって映像を平板にしてしまった気がする。カラーの溝口作品は総じてよくない。
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