[コメント] 真昼の暗黒(1956/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
皆さんが既に述べているように、本作は裁判中の「八海事件」であり、こういった冤罪を告発する為の映画が裁判中に製作され、しかも一般公開されるという製作側の強い姿勢に驚かされる。
本作は冤罪を告発し、被告たちを救うという目的を明確にした映画である。
実際の事件の概要は次の通りである。
1/地裁(有罪)→2/高裁(有罪)→3/最高裁(差し戻し)→4/高裁(無罪)→5/最高裁(差し戻し)→6/高裁(有罪)→7/最高裁(無罪)
なんと最高裁は二度も自らの判断をせずに高裁へ差し戻し、二転三転する高裁の判決に対し、遂に三度目にしてやっと無罪判決を下すことになった。本作では1と2までを描いている。
本作を観ると裁判官への苛立ちが自然に湧いてくるように作られている。なにしろ、我々観客は「無罪説」を主張するドラマを見せられ、なおかつ警察の違法な暴力による取調べの実態をもドラマとして見せられているからだ。
我々観客は「真実」を知ったつもりな訳であるから、唖然とするような判決を下す裁判官が阿呆に見えてしょうがないのだ。
実際の裁判官は通常、こういった「再現ドラマ」を観ることなどなく事件を審理する。つまり残されている証拠からのみ事件を審理あるいは推測していく。だから観客からすれば少ない情報によって判断をするとああいった判決に辿り着くしかないのかとも思う。だが、忘れてはならないのは、観客が「知っている情報」とは意図ある情報であるという危険なのだ。
しかし、ここに私は恐怖を感じる。本作は冤罪を晴らす為の「道具」として製作されている。つまり片方の強い意図による映像を見せられている訳だ。もちろん、事件が最終的に無罪で終わった事に対して異論がある訳でも不満がある訳でもない。むしろ本作がキネ旬第一位になったり、話題になった事が世論を動かして冤罪を晴らした事実を褒め称えたい。
だけども、こういった「ある意図を持った映画」は御存知のように表裏一体の危険性をも併せ持つ。現在の我々は本事件が冤罪だったという認識を持っているが故、本作を褒め称えるが、「本当のところ」は被告たちの胸の中にしか無いはずである。
だからこそ、こういった映画が乱発、悪用されたらどうなるのだろうか。映画でもTVでも、ある意図を持ってキャンペーンを張られたら・・・
歴史の確定していない、あるいは決着のついていない問題を映画化・ドラマ化(もちろん、ニュース・バラエティも含む)するのは世の常である。いずれも周到な構成で観客を説得しにくる作品たちを判断するのは、常に私たち自身であることを強く自覚したいと思った。
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