[コメント] 白い巨塔(1966/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
大学病院内の人事抗争を描く前半部から一転、後半は医療過誤訴訟を扱った法廷物になる。前半の人事抗争はどういう決着になるのかまったく見えず、後半の法廷闘争はある程度落し所が予測できたが、どちらも実に面白かった。
前後半を通じて、傲岸不遜で権威主義的な財前助教授と、学究肌で融通がきかないが芯の強い里見助教授の性格が対比して描かれる。通常であれば財前助教授に反感を感じながら観るところだろうが、演じる役者が二枚目の田宮二郎なのでそうもいかない。里見助教授の方もわりとヒーロー的に描かれるが、最後の身の振り方などは、男らしく潔いとの見方もあるかもしれないが、私は製作者側の悪意を感じた。つまり権威主義を批判する一方で、純粋正義一辺倒主義からも距離を置いていると。まあそれくらいのバランス感覚がなければ、正統社会派ドラマをエンターテイメントに押し上げることは出来ないだろう。
しかし無いものねだりするわけではないが、バランス感覚だけではいずれ価値相対主義に陥るのでは、という気もする。この映画で言えば、じゃ、患者はどうなる、という点。もちろんここまで見せる映画であればこその批判だが。
85/100(01/02/18見)
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ほぼ同じような感想を持ったが、今回あらためて、東教授の娘・佐枝子(藤村志保)が重要な役割を担っているのに気付いた。
まず彼女は、かつて縁談が持ち上がったが破談になった財前に恨みを持っていて、話題が財前に及ぶと、「私は財前さんは大っ嫌いです」と感情を露わにする。ともすれば、誰もが抱くであろう野心に対するその一途さ(と端正なマスク)で、つい財前に肩入れして観がちな観客(=私)を、現実に引き戻してくれる。彼女が客観的な第三者の意見を代弁しているとまでは思わないが、一義的に財前は悪党であるからだ。
それだけでなく、佐枝子は、自身はほのかに好意を抱いている、里見助教授(田村高廣)の人物をも暴いてしまう。里見は、佐枝子との会話の中で、家事や育児の一切は妻に任せ、自分は仕事のことだけ考えていればいいのだから(幸せだ)と、さほどの感慨も現わさずに述懐する。当時の人がどう見たかは分からないが、現代的な感覚からすると、彼はなんとも自己中心的で傲慢な男に見える。妻君に対する「愛情」ないし、家庭というものに対する「興味」が感じられない(言い訳がましいが、同じ男として、そういう感覚の幾分かは分かる)。
さらに彼女は、父や、東都大の船尾や、財前一派がやっていることを、「権威主義や、封建主義みたいなもの」と評して批判した。この表現が微妙なのだ。確かに彼らのやっていることは権威主義的であるが、ではそれだけかというと、そうではない(気がする)。では封建主義かというと、それに似通っているものではあるが、封建主義そのものではない。だから「封建主義みたいなもの」だ。つまり彼女は(したがってこの映画は)、自分が批判しようとしているものを、きちんと対象化できていない。
で、それが「何」なのか、私に指摘できればいいのだが、私もできない。今回、ざっとネットで調べた限りでは、「タテ社会構造」ってのが出てきた。他に思いつくところで言うと、「自己顕示欲と支配欲」「怠惰と保身」「集団依存心」「『個』の未熟」「儒教倫理」「家父長制」「身内意識」「バカの壁(こりゃ冗談だ)」……どれもしっくり来ない。だが、雪印や山崎製パン、三菱自動車の例を挙げるまでもなく、これは確実に今の日本社会にも根強く残って不善をなすものだ(――ウチの会社にもあります)。
どなたか、これをスパッと一言で言っていただいたら、シネスケのマグサイサイ賞と言われる(?)「G31平和賞」を差し上げます。
85/100(04/06/05再見)
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