[コメント] 私が棄てた女(1969/日)
全編の基調はモノクロ。しかし回想シーンは黄色がかったモノクロ。ラスト近く、騎馬での合戦のような祭りのシーンがフルカラー。ラストのイメージの連鎖もフルカラー。こういったメディアの扱いは浦山桐郎の「映画における演劇性」の考察が伺える。しかし中途半端だと思えて仕方がない。「ドドンパ娘」こそ映画だ。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
それは例えば、河原崎長一郎の演技はこの映画に限ったことではないが、悉く映画的ではないと思えるのだ。小林トシエのキャラクターもとても感動的だが、それはまさしく演劇的な造型じゃないか。それに比べれば浅丘ルリ子のキャラクターは映画的な聡明さで見る者に迫ってくるが、最後が腰砕けだ。
最も美しいシーンは逗子の海岸のシーンだろう。唐突に「ドドンパ娘」の歌声が聞こえ、小林トシエが躊躇無く一団に交わるシーン。一緒にいる河原崎がこの展開を理解できないのと同様に我々観客にとってもこのような展開は予測不能だ。それこそ、云い換えれば「物語」を拒否する、映画における演劇性を拒否するシーンだ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。