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[コメント] タクシードライバー(1976/米)

第三者の怒りというものは、放ってくれる銃身を持たない弾痕の様なもので、自らの軌道は自らで成し、修正せねばならない。その、見事に的を射抜けるか、それとも虚空の彼方に消えて行くかの緊張感は、実は、作家自身のそれなのではないか?
kiona

 “映画監督が選ぶ映画”なんてのをたまに目にすると、この映画は大そうな打率で名前が挙がる。観客以上に、作家にもてるようだ。

 作家にもてる小説ということで、真っ先に思い浮かぶのは、自分は、レイモンド・チャンドラーの作品。

 そこに出てくる私立探偵フィリップ・マーロウというのは、常に事件に絡むが決して当事者にはならない、なれない。たとえ、近親者以上に物理的な交わりを持ったとしても、精神的には決して交わりきらないのである。これというのは、彼が、かつての私立探偵ものには無いほど、私立探偵という職業の本質を突いていたのと同時に、その本質を、その一人称文体により、作家の寄る辺無さの体現にまで昇華していたからだと、考えられなくもない。

 つまり、作家という職業は、特殊な場合を除いて、常に第三者の立ち位置にいる。当事者たちが作る輪の中に関し問題意識を持ったとしても、基本的には、絶対的に蚊帳の外なのである。そう、私立探偵と同じように。

 レイモンド・チャンドラー≒フィリップ・マーロウだとすれば、まさに作家≒私立探偵なのではないか。

 自分は、フィリップ・マーロウが小説における作家の寄る辺無さの体現であるとするなら、このトラビスこそ映画におけるフィリップ・マーロウの立ち位置にあると、そう思えてならない。

 この映画は、狂気でありながら一人称の視点を貫徹しているが故に破綻していない。簡単に言うが、映画で一人称というのは凄いことなのだ。本家フィル・マーロウの映画化だって、この一人称の文体の映像化にどれほど戸惑ったことか。それをこの映画は、タクシーという内から外への視点、タクシー・ドライバーという自らの第三者としての立ち位置の自覚、狂気と言う逆説的に安定した主観によりクリアして見せたのだ。

 タクシー・ドライバー≒映画作家の寄る辺無さの体現

 それらを通じて第三者の主観でしかない弾痕を確かに的に当てて見せたこの映画が、寄る辺無い映画作家たちにとっての勇気たりえているのも、無理からぬことだろう。

(評価:★5)

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