[コメント] 時計じかけのオレンジ(1971/英)
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いくつかの例外的なシーンはもちろん存在するものの、この映画の大部分が「室内」の場面で占められているという事実を疑う者はいないはずだ。むろん映画全体に占める室内場面の割合が本作以上に大きい作品はいくらでもあるだろう。それにもかかわらず『時計じかけのオレンジ』を「室内の映画だ」と断じることに意味があるとすれば、それはこの映画の室内におけるショットの多くが、左右と奥の壁、床、さらには天井さえも同時に収めたフィックスショットであり、空間的な広がりをきわめて厳しく制限しているからだ。そして、そこから「不自由」の概念を読み取るのは決して不自然な行いではないだろう。
物語の進行に即して云うと、主人公マルコム・マクダウェルは中盤において警察に逮捕され、刑務所に拘禁され、邪悪な行為ができないように矯正され、ようやく釈放されても今度は大怪我を負って病院のベッドで身動きが取れなくなる。ここに一貫して<不自由へ>の流れを見ることは容易いし、結局未遂に終わった自殺の方法が「飛び降り」であったことは、それが「室内から屋外への身体的な移動」すなわち「不自由から自由への移行」の希求であったことを紛れもなく示してもいる。
しかし、それでは逮捕以前のマクダウェルが「自由」であったかというと、私は必ずしもそうは思わない。それは既に述べたように、逮捕以前のシーンであっても、多くの場合マクダウェルは「空間的な広がりが制限された室内」に閉じ込められているからだ。どのような無法や乱暴狼藉を働こうとも、マクダウェルは「室内」という「不自由」に閉じ込められつづけているのだ。
ラストシーンにおいてマクダウェルは逮捕以前の邪悪さを取り戻す。しかしながら、本質的な意味においてマクダウェルが「不自由」にとらわれているということに変化はない。繰り返しになるが、それは「室内ショットの撮り方」が示している。
ラストカットの「夢想」がまさに「夢想」であるのは、それがマクダウェルがついに手に入れることのできなかった「自由」を象徴しているからだ。と云っても、そこで行われている「行為」がマクダウェルにとっての自由を象徴している、などと云いたいのではない。私が問題にしているのはあくまで画面そのものだ。自由を象徴するラストカットの画面、それは「空間的な広がり」という概念自体を欠いた「真っ白な背景の画面」である。
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