[コメント] ミラーズ・クロッシング(1990/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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風格はあれど黴臭い導入が、「帽子」や「ヅラ」といった“COVER”(「隠す」もの)アイテムの登場(や紛失)から装いを変え、「格調や理性という名の帽子の下で発生している状況は、つまるところタダの痴話喧嘩に集約される」と実感され始めてからが本番だ。
(ヅラ男の死体を不思議そうに眺める犬。「犬も食わない」ってことだよね!)
「状況の中心たる人間(もしくは死体)がふんぞり返って状況を嘲笑している」というコーエンの「悲劇の力学」を、薄ら笑いのタトゥーロとブシェーミが体現。特にタトゥーロの、満を持しての登場のタイミング。その皮肉な完璧さ。
タトゥーロの登場時、「渦の中心にいるのはこんな奴だったのか・・・」と脱力する。椅子にふんぞり返ってのご登場は開始から実に25分後だ。そして「なんでこんな奴のために」という徒労感と無常感も醸成される。いかにもコーエンらしい。嘲笑が振り切れた緊迫の描写の挿入で引き締めるあたりもコーエン必勝の方程式。
帽子の映画だ。いくら理性だの建前だの何だのと取り繕っても、それはエゴの前では吹けば飛ぶようなものだ。コーエン式の嘲笑だが、帽子のもの哀しい飛ばし方に憐憫や慈しみを一匙入れてみるのがまたコーエン式の肝。(「ビュゴーッ・・・!」ではなく「ふわ〜っ、くるくる、ひゅ〜・・・」)というのがミソ。コーエンの映画であることを確信する瞬間である。
主演二人が類型のツボを微妙に外しているのも、コーエンのフィルモグラフィの一貫した意図を踏まえれば合点がいく。
ベッド下の銃撃(くるぶし→頭)。タランティーノも観たんでしょうね。
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