[コメント] いちご白書(1970/米)
私は現在、主人公と同じように大学生である。
校舎はお上品な清潔さなどとは無縁だ。至るところに政治的立て看板やビラが林立している。今思い出せるだけでも例えば「アメリカの独裁を許すな〜」「ブッシュ帝国の野望〜」と大書した看板があり、イラクの奇形児(なんでも毒ガス兵器の名残らしい)の写真をコラージュしたポスターがある。中には小泉首相の絵を書いて「ゲッツ!核兵器。」と言わせているバカなものもある。また、教室の机一つ一つにはデモ参加を呼びかけるビラが毎日のように置いてある。時には「その手」の集会が教室で堂々行われているのを目にすることもある。実際に会ったことはないのだが(もしかしたらあるのかもしれないが)極めで過激な団体も存在している。大学側も学生に注意を促す看板を立てていて、水面下でやり合っているのが良く分る。
毎日何かしらの形でそれらに接している。この雰囲気は独特で嫌いではない。
彼らが果たしてどこまで自らの行動や思想に対し真摯であるのかはよく分らない。もしかしたらサイモンのように下世話な理由で参加しているのかもしれない。そうでないかもしれない。何しろ今のところ関わりが一切ないのだ。ただ、たとえ邪まな理由であっても、許容の目で見ることは出来る。
非常事態が欲しいのかもしれない。
時々そう思うのだ。羨ましさを感じるときもある。もしかしたら何かの拍子に私自身が参加していたかもしれないのだ。破壊活動や違法行為には到底賛同できないが、何かのアツイ目的の為に団結し行動を共にする。この熱は絶対に今でしか体験できないものだろう。ちょっと入ってみたいかも、という自分も確かに存在する。
同時に嫌悪感もある。「革命」という言葉には魔力がある。実際に経験もせず、一体どのようなものなのかは実はよく分らないのだけれど、なぜか魅力的な響きがある「革命」。かっこつけに最適である。しかし今の時代、少なくとも日本で「革命」などない。この単語を目にすると非常に白々しさを感じるのだ。ヒットチャートに登る歌では軽軽しく歌詞に使用され、チェ・ゲバラのTシャツを意味もなく着回す輩がいる。こういう独り歩きはいただけないと思う。
良きにつけ悪しきにつけ「革命」には大衆を熱狂させ判断力を失わせひとまとまりに集めるだけの磁力が確かに存在するのだろう。それが見事に表出した結果が当時のアメリカや日本だったのかもしれない。「いちご白書」はその熱狂(とそれに伴う虚偽性)がいかなるものだったのかを現代の人間に伝えただけでも存在価値がある。何しろ私は「革命ごっこ」すら未体験なのだから。
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