[コメント] 汚れなき悪戯(1955/スペイン)
キリスト教の厭世観を示して露骨、慄然とせざるを得ない。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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修道士たちは、キリストの禍々しさを承知したうえで、世間から遠ざけるためにあの像を物置深く幽閉していたのではなかったのだろうか。
そうでなければ、あのような立派な像を使わない意味が判らない。修道院はもとは貴族の館であった。当時からそこにあった像が災いを呼び、館は戦争で破壊されたのだろう、と想像したくなる。少年が二階に上がるなと命ぜられたのも、農機具など転がっていて危険だからではなく、言葉通り「大男」が危険だからであったに違いない。クライマックスで修道士たちが示す感情は諦念であり、歓喜ではなかった。修道院はここでは、荒ぶる神から世間を守る緩衝地帯に見える。
この作品、仰角で空の雲を捉えるキャメラがどれも美しい。その空の下ででんぐり返りをする修道士と少年のカットは、生の美しさを示して絶品、小津を想わせる。それがこのラストに至るとは何たることだろう。何度も科白で繰り返される、地上に幸福を求めないキリスト教の倒錯性を、本作は子供向けの表現を借りて、ほとんど戯画的に示している。この突き放しは宗教的な意味に覆われており、坂口安吾の「文学のふるさと」とは似て非なるものだ。
プロパガンダがもっと露骨なら★1つにしたい内容だが、上記のような観方を妨げない客観描写には好感を持った。
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