[コメント] セントラル・ステーション(1998/仏=ブラジル)
ドーラは最低の女だ。
映画の主線はもちろん、主人公ドーラと少年ジョズエの物語である。ドーラがやがて心動かされていくのもジョズエあってのことだし、そもそもそうでなければ映画として話が進まない。
しかし私が妙にこの話にこだわってしまうのは、ドーラを変えたのは本当にジョズエだったのか? という部分だ。例えば、あの話が全てリオの市内で完結していたら、ドーラは変わっただろうか。
私にはそうは思えない。都会の中にいる限りドーラはイヤな女のままだったろう。ドーラを変えたのはジョズエとの旅であったろうが、その旅をして成立させていたのは、明らかにあの茫洋たる大地と、果てしなく広がる雲の海だったように思うのだ。あのブラジルの乾いた大地が、木訥で敬虔な人々を育み、物語の舞台を形作っている。都会を離れ、徐々にその中に埋没していくことで、2人の旅は意味を持ち始め、やがてドーラは変わっていく。
思えば、私たちは映画を観ることで主人公の足跡をなぞり、その人生の一瞬を疑似体験するのではなかったか。だが、所詮その体験は疑似であり、望んでも体験できるものではなかったはずだ。私はまだ女房に逃げられてもいないし(『パリ・テキサス』)、砂漠の真ん中で手品を披露する技量もないし(『バクダット・カフェ』)、死に至る病でもなければ(『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』)、オシッコしたくもない(『バッファロー'66』)。
だがもし、ドーラを変えたのがジョズエではなく、あのブラジルの大地だったとしたら、私はそこを旅するだけで主人公が得たものと同じものを得られるのではないか―と思ってしまうのだ。たとえ何も起こらない旅でも、人々とふれあい、あの荒野に佇むだけで、何か大切なものが得られるかもしれない―そんな期待を抱いてしまう。
「rocking chair detective」という言葉がある。「揺り椅子探偵」。現場にもいかず、パイプでもくゆらしながら揺り椅子の上で事件を解決していくことの例えだ。ドーラを変えたブラジルの空を、私はスクリーンを通して揺り椅子の上で眺めている。都会で病んでしまったドーラに、少年ジョズエとの旅が必要であったのなら、あの荒野に抱かれることに憧れる私もまたドーラと同じように病んでいるのに違いない。揺り椅子の探偵が傍観者であるように、私もまたドーラの人生の傍観者である。だが、どちらが本当に自分の人生を歩んでいるのかは、考えるまでもなく明らかである。
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