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[コメント] サイコ(1960/米)

プレ『』としての『サイコ』。「人間」の殺害としての映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭の逢い引きのシーンで、マリオン(ジャネット・リー)が恋人・サム(ジョン・ギャヴィン)に、家に来て私の妹と三人でステーキでも一緒にどうかと誘う台詞に、「炉棚の上に母の写真があって」という言葉がある。それに答えてサムは「ステーキの後は妹さんを映画にやって、ママの写真を壁に向けるかい?」とおどけてみせるが、写真ということは、母親自身は亡くなっているか、少なくとも不在だということだ。子を監視し、セックスを禁ずる存在としての、姿なき母親。ここで早くも、ノーマン(アンソニー・パーキンス)の二重人格と相通じるテーマが現れているのだ。

マリオンが、預かった札束を持ち逃げすることを決意するシーンでまず気がつくのは、冒頭の逢い引きのシーンでは白い下着だった彼女が、黒い下着になっていること。人格的に黒く変貌してしまうマリオン(下着を着替えさせるために、札を盗まれる金満オヤジに「蒸し暑い」と言わせていたのだろうか)。と同時に、彼女の背後の扉が開いていて、そこがバスルーム(!)であることにも驚く。モーテルでノーマンが彼女に部屋を紹介するシーンでも彼は、バスルームを指し示しながらも何やら戸惑ったような様子を見せていた。

ノーマン曰く「剥製のように無害」なベイツ夫人は、文字通り息子ノーマンによって遺体に保存処理がされ、まさに剥製にされている。ノーマンは、鳥は「慎ましい存在」だから剥製向きだとマリオンに語るが、この映画で最も凶悪で恐ろしい存在とは、息子に殺され、その息子が自身の内に創造した第二の人格としての、実体なき、最も「慎ましい存在」であるベイツ夫人なのだ。ノーマンの事務室には鳥の剥製が不気味に飾られているのだが、マリオンが泊まる一号室にも鳥の絵が飾られている。マリオンの遺体を発見するシーンでノーマンは、その額の一つを落としている。今回再見して、思いのほか「鳥」がフィーチャーされていて驚いたが、思えば、バスルームで容赦なくマリオンに刺し込まれるナイフは、『』の凶暴化した鳥のクチバシの恐怖を予告しているようにも思える。

バスルームでの刺殺シーンは、シャワーヘッドを下から捉えたショットが挿み込まれて開始されるが、マリオンが死んだ後にも、このシャワーヘッドのショットが挿入される。だがそこには、最初のカットでは想定されていたであろう「マリオンの視点」というものは既に、永遠に喪失されているのだ。人の生死になど関わりなく同じように存在し続ける、事物の冷酷さ。殺害後のシャワーヘッドのショットは、円形という類似性に従うように、排水口のショットへと繋がるが、そこから更に、やはり円形の、マリオンの瞳のショットへと繋がる。排水口の黒い穴と、瞳の同等性。思えば殺害シーンは、マリオンが叫びを上げる口のクローズアップから開始されていたのだ。ついさっきまで生きて、苦悶の叫びと表情とを晒していたマリオンは、もう既に一事物と化している。シーン最後のカットでの、横たわるマリオンの目からは涙が流れ落ちているようでもあるが、シャワーの水滴が顔の上を滑っているだけともとれる。「涙」という、感情の表徴は、ただの水滴と区別し得なくなっているのだ。「目」と、排水口へ流れていく水の「渦巻き」という組み合わせは、『めまい』を想起させもする。(因みにこのカット、写真に水滴を垂らしたのを撮るという方法がとられていたと聞いたことがあるが、真偽のほどは不明)

マリオン殺害シーンが鮮烈なのは、あのきわどいショットの激しいカット割りによって、マリオンの裸体への窃視というかたちで、観客がノーマンの覗き行為との共犯関係にされてしまうせいでもあるだろう。犯罪心理的にも、ナイフで刺すという行為は、肉体への挿し込みという点で、性交の欲求と結びつく面があるらしい。覗きといえば、ノーマンが一号室を覗く穴は、大きな穴の向こうの壁に、小さな覗き穴が空いているという、虹彩と瞳孔を思わせる形状をしていた。

今回再見して、刺殺シーンは初見のインパクトよりはやはり劣ってしまったのだが、却ってその後の、ノーマンが淡々と後始末をするシーンが予想以上に長く、延々と映し出されることの不気味さが際立って見えた。まるで、モーテルの管理人としての仕事を、常と変わらず淡々とこなしているかのようだ。後のシーンで探偵・アーボガスト(マーティン・バルサム)の聞き込みを受けるノーマンは、「誰も泊まっていなくても、一週間ごとにシーツを取り替えるんだ」と語っていた。即ち、人が居ようと居まいと関係なく、モーテルでの仕事は行なわれるのだ。マリオンの存在の消却は、モーテルの仕事という日常性によって遂行される。死んだマリオンは、シーツにつくカビか何かと変わらないのだ。

その一方でマリオンは、殺される直前、ノーマンの話に影響されたかのように改心し、彼に対しても本名を告げていた。つまり、一個の人間としてのマリオン・クレインに返っていたのだ。その彼女が容赦なく、モノとして片付けられる。彼女が殺害された後、カメラが室内を舐めるように映し出し、マリオンが札束を包んだ新聞紙をカメラが捉える。その後、ノーマンが、マリオンがいまわの際に引き千切ったシャワールームのカーテンを床に敷いたのを見て、あっと思ったのだが、案の定、マリオンの遺体はそのカーテンに包まれてしまう(つまり、今回再見するまで、このシーンがあったこと自体を忘れていたわけですが)。犯行を隠すために包まれるという意味で、マリオンは、自身が盗んだ札束と同じ扱いを受けることになるのだ。

こうした、人間とモノとが極端に近接してしまう恐怖の演出という点では、モノクロ映像の貢献を見逃すわけにはいかない。血も瞳も警官のサングラスも闇も、全て黒に還元されてしまうということ。生ける人間が、単なる明暗の差異に還元されるモノクロ映像。『サイコ』の恐ろしさは、アンドレ・バザンがその「写真映像の存在論」で述べていた「ミイラ」「聖骸布」としての映像それ自体の怖ろしさでもあるだろう。

ノーマンによる隠蔽シーンが済んだ後、サムの働く店で婦人が殺虫剤に文句を並べ、「人も虫も、苦痛なく死にたいわね」と言っているのは何とも皮肉だが、この台詞はまた、ラスト・シーンで「ベイツ夫人」が「私は蠅さえ殺せない」と言うのとリンクしてもいる。考えてみれば、この映画でその命が最も尊重されているのは、虫ケラなのかもしれない。

終盤、地下室に忍び込んだライラ(ヴェラ・マイルズ)に肩を突かれた、ミイラ化したベイツ夫人がユラリと回転することで、恰も死体が自ら振り向いたかのように見えるカット。驚愕したライラが振り上げた腕にぶつかった灯りが揺れることで、不動のベイツ婦人の顔に、陰影による動きが生じるカット。死せる物体が、仮初めの生らしき光景を見せる恐怖。ここでは、先述したマリオンのモノ化とは逆のかたちで、事物と人間の境界が揺さぶられている。

地下室のライラの前に、ノーマンが登場するシーンで、すぐさまサムに取り押さえられたノーマンは、体をねじり、顔を歪め、ノーマンとしての存在が溶解してしまったかのようだ。溶解といえば、彼がライラに襲いかかる際、「私がノーマ・ベイツ!」と叫んでいるが、「ノーマ」と「ノーマン」……、名前が既に、半ば溶け合っている。まぁ、女装してナイフを振りかざすノーマンの姿は、今回再見して、ちょっと吹いてしまいそうになったのが辛いところですが。やはり、不気味さと滑稽さとは紙一重なんだな。

最後に、精神科医が長々とノーマンの病状を解説してくれるシーンも、どうにも野暮ったい。だが、これに続いて、何もない部屋に一人居るノーマン(=ベイツ夫人)を捉えたショットはやはり不気味だ。彼の背後の壁の余白が恐ろしい。それは、マリオン殺害シーンで、清々した様子でシャワーを浴びる彼女の背後の余白、白っぽく半透明なカーテンの向こうに現れた人影が血塗れの惨劇をもたらしたことが、観客の脳裏に焼きつけられているせいでもあるだろう。空白、空虚こそが恐るべきものであるということ。それは、自らの人格を喪失した、抜け殻としてのノーマンの恐ろしさでもある。

それにしても、この『サイコ』という映画について思い出す際、脳裏に浮かぶのはノーマンの顔、マリオンの顔、その次くらいに、殺された探偵・アーボガストの顔だ(或いは、極めて非人格的な脅威としての、サングラスの警官)。アーボガストは、「ベイツ夫人」に刺されて階段を落ちていくカットの表情が印象的だという理由もあるが。片や、事件の真相を追い、最後まで生き残るライラやサムの顔は、殆ど記憶に残っていない。つまりこの作品そのものが、生者としての登場人物から、その存在感を奪い取っているわけだ。ノーマンにしても、最後には「ベイツ夫人」によって、人格的に殺害されてしまうのだから。マリオンが殺害されたのが、彼女が本来の自分を取り戻した直後であることと、アーボガストが殺害されたのが、ライラらと信頼関係を築き始めた直後であること。ノーマンのみならず、彼によって殺害される者の末路によっても、「人格」の殺害というテーマは一貫して描かれている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)CRIMSON 3819695[*] ジェリー[*]

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