[コメント] 黒猫・白猫(1998/独=仏=ユーゴスラビア)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
(『アンダーグラウンド』を既に観た方向けのレビューで、しかもかなり穿って書いています)
この陽気さが「これでいいのだ」なのか「こうするしかないのだ」なのか、俄かに判別つかない。そんな感想を抱かせるのは『アンダーグラウンド』を経由しているからだが、対極的なドナウの扱いをみるに、「これでいいのだ」ろう。
『アンダーグラウンド』におけるドナウはとても哀しく、残酷だ。「ここ」にとどまりたいがために嘘を吐き続けた(嘘を吐かなければ生きていけなかった)罪深い人間たちにとって、ドナウはアイデンティティそのものであり、あたたかくなつかしい故郷であると同時に、登場人物の妄執の種=呪縛と表裏一体である(クロの息子と妻をドナウは吞み込み、クロ自身も呑み込んだ)。最終的に国を失った彼らに対してドナウからもたらされる理想郷の「癒し」も幻想に過ぎない、でもその幻想の中にしか鎮魂はない、彼らは死んでもドナウから離れられないのだと。死者をドナウで再会させ、幻想の理想郷へドナウの流れに乗せて運び去る終局は、監督の血反吐を吐くような渾身の「優しい嘘」だ。陽気さ、マンガのような演出は「こうするしか弔えないのだ」という、剥けば血が噴き出すかさぶたのようなものだ。リアルに生きれば死んでしまう、監督は嘘の中に血肉と癒しを与えたのである。
これを踏まえての『黒猫・白猫』である。本作でのドナウは、糞溜めのような現実とその住人を清濁併せ呑んで抱擁しとどまらせつつも、呪縛から離れ、新しい世代に対し、ここを去ることも許している。
「ここにとどまる必要はない」。
『アンダーグラウンド』を踏まえてみれば、「自由になっていい」という終局はとても重みがある。この陽気さ、肯定感はただの開き直りや哀しい嘘ではなく本物だ。糞溜めから脱出したカップルを乗せた船を運ぶドナウと、『アンダーグラウンド』終局のドナウの流れは全く違う世界へ続いている。「これでいいのだ。ここにとどまる必要はない。とどまろうが、去ろうが、それは自由だ」。この監督でしか導き出せない、血の通った結論と思う。感動した。
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