コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 惑星ソラリス(1972/露)

俗世から遠く隔離された巨大な密室で、夫が死んだ妻と向き合う。埋葬した自分の愛と向き合う―― 一秒たりとも目が離せない映画、そしてネタであるが……
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







死んだ筈の妻がそこにいる。しかも、幻覚ではなく、科学的根拠に裏付けられた物質としてそこにいる。想像してみてください。そんな状況になったら、人はどう行動するか?まず、最初に違和感を覚えたのが一幕のラストから二幕の最初にかけて、クリスが妻(もどき)を発射するくだり。正直言って慌てた。水洗便所じゃないんだから……

そもそも、再会をめぐる夫の驚きが過小じゃなかったろうか?確かに、すでに他人の事例を目撃していて、事前の知識が豊富だったわけだから、宇宙飛行士でありまた科学者だったことに鑑みても、「俺の番か!」と考える冷静さと覚悟があったとしてもおかしくはない。だが、「見る」と「触れる」では別次元だ。また、「見知らぬ人間が現れる」のと「よく知る人間が現れる」のも別次元な筈だ。まして、「よく知る人間」にキスをされ、手を握られれば、冷静さや覚悟ではどうにもならない衝撃に襲われるのではないか?それとも、その衝撃が彼をして「発射」に駆り立てたということなのだろうか?たとえ、そうであるにせよ、そこに至る前に、この映画が根幹に置いている「彼女がハリーなのか?」という命題に関し、テツガク的に一悶着起こして欲しかったところだ。

で、次だが、二人目のハリーもどきが現れ、クリスがちょいと彼女を取り残そうとしてしまい、取り残される恐怖で半狂乱になった彼女がサップも真っ青な怪力でドアを引き裂き出てきてしまったシークエンス。皆さんあまり言及なさらないのが不思議で仕方ないんだが、自分はここ飛び上がって戦慄したと同時に、最後の最後まで引っかかってしまった。

死んだ人間と話をしても、その人が死んだ人間だという実感はあまり湧かないだろう。もし、仮に死んだ人間と会ったとして、生ける者が死者を死者として実感するのは、その人の精神ではなく、その人の肉体が変容してしまったと実感したときなのではないだろうか?或いは、変容してしまった肉体が、死者の肉体が生者の時のままの精神を宿していると感じた時、自然界の大いなる摂理に反しているという背徳を感じるのではないだろうか?

生者である自分が感じた死者であるはずのハリーに対する隔絶感、それと同じものをクリスが感じていた節が一切見受けられず、自分はあのシーンに取り残された。自分なりの肉体的直感から、この映画の観念的な展開に根本的な疑問を感じ、面白いと感じながらも、最後の最後まで信じることができなかったのだ。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)Myrath peaceful*evening ina kawa けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。