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[コメント] 最後のブルース・リー ドラゴンへの道(1972/香港)

ニャンコ先生なのだ!
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ラストシーンで、去っていくタン・ロンの後姿を見つめながら、気のいい太っちょのクンは呟く。「武器の蔓延るこの世界で、彼が生きていくのは大変かも知れない」。実際、決闘の後、拳銃を撃ってきた敵方のボスに対し、タン・ロンは投げ矢で応戦するが、結局ボスを捕らえたのは、パトカーで駆けつけた警官たちなのだ。

文明の利器で圧迫してくる敵に対し、体ひとつ、東洋の体技のみで立ち向かうタン・ロン。この映画は、西洋化の波への抵抗運動だ。白人たちに地上げにあっている中華料理店の従業員たちは皆、英語名を名乗るが、タン・ロンにはそれは無い。亡父から店を継いだ娘のチェン(ノラ・ミャオ)にローマの名所の遺跡を紹介されても、タン・ロンは「九龍城と同じだ」と無関心。「アメリカ最強」と呼ばれる柔道家のコルト(チャック・ノリス)が飛行機から降りてくる場面での、彼がサングラス越しに辺りを見回す様子は、僕にはやはりマッカーサーを連想させられる。彼が日本人柔道家を負かすのも、日本を降伏させたアメリカ、という歴史的背景が反映されている筈。

ドラゴン怒りの鉄拳』では日本人柔道家たちが敵役にされていて、この作品にもそうした所が無いわけではないが、店の従業員たちが柔道の訓練をしていたり、それをバカにするクンにタン・ロンが「流派は関係無い」と朗らかに言う台詞など、民族的な対立構造はかなり緩められている印象を受ける。その事は、決闘でコルトを倒したタン・ロンが、落命した敵に敬意を表して胴着をかける行為にも見てとれる。文明の利器で相手を圧倒するのではなく、鍛錬の成果である体技ひとつで勝負する事の崇高さには、東西の別など無い。

闘いの舞台が、かつて西洋の大帝国であったローマである事にも、上述のような文化論的な意味合いが感じられる。今は既に廃墟と化した闘技場での、東洋人と西洋人による、東洋の体技による決闘。

この闘技場を彷徨いながらコルトの姿を探していたタン・ロンは、眼前に突然現れた猫が下りてきた階段を上がって、コルトと遭遇する。そうして始まる決闘シーンでは、特等席からそれを眺める子猫の姿を捉えたショットが、妙に執拗に挿入される。決闘前の準備運動をする二人を捉えたシーンでは、タン・ロンの背後に子猫の姿が見え、これはタン・ロンの、本来は穏やかな性格を、闘いしか頭に無さそうなコルトと対比させる演出意図なのかと思うわけだが、どうもそれだけではない。

決闘は、それまで可愛らしくしていた子猫が唐突に、「やっちまいな!」とでもいったような、殺気立った鳴き声を上げる事で開始されるが、タン・ロンは劣勢。それを見つめる子猫のショットが挿入されると、タン・ロンは態勢を立て直そうとする。と、それまでジッと見つめていた子猫は、前足で何か球を転がして遊んでいる。「ニャンコ、飽きちゃったの?」と、つい和みかけるが、ここからタン・ロンは攻撃に転じるのだ。そして、見よ、タン・ロンのその身のこなし、しなやかでしかも鋭い動作、甲高い叫び声、それら全ては、猫の動きに倣ったかのようなのだ。ニャンコ先生なのだ。とどめの一撃直前のクローズアップで、ニャンコのアップまで挿入されているのも必然なのだ。ローマの遺跡をウロチョロしている子猫が、東洋の技の極意のメタファーであるという点に、洋の東西を問わぬ奥義の普遍性が象徴されているのだ。

(評価:★3)

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