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[コメント] 遊星からの物体X(1982/米)

誰が敵か判らない状況を「赤狩りの恐怖が云々」などと語られずに済む時代に撮りえたカーペンターは史的に幸運である。広大な南極大陸における密室的空間、極寒の殺風景を赤く染める火炎放射/爆破といった対照の演出。屋外と屋内を往還して違和感のない撮影も高水準。犬と腹の裂けぶりにはやはり唖然とする。
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**ネタバレ注意**
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しかし、私の好みから云えばこの映画はクールすぎる。各隊員間の関係性に濃淡がない(このような状況設定の映画にあってホモセクシャルの気配が微塵もない、という点がまず象徴的でしょう)。「こいつだけは敵であってほしくないな」「もし敵だとしても殺したくないよ」「元々あいつのこと嫌いだったから疑心暗鬼にかこつけて殺したろうかしら」といったことを作中人物にも観客にも思わせない。ここに描かれているのは確かに「誰が敵か判らない」恐怖ではあるが、それはあくまでも自分が殺されることに対して覚える「される-恐怖」であり、状況如何によっては自分が仲間を殺さなくてはいけなくなるということに対する「する-恐怖」ではない。云い換えれば、恐怖の対象の所在はどこまでも「他者」であって、「自己」や自己と他者の「関係」ではないということだ。自分の肉体が乗っ取られてしまう/自分が怪物に変貌してしまうことに対する恐怖、すなわち「自我」の存亡にまつわる恐怖はむろんあるだろうが、カーペンターの演出はそれを(たとえば、ゾンビ映画によくあるような形で―「私はゾンビに襲われてしまった。ゾンビになるくらいだったら死んだほうがましだ。殺してくれ」―)焦点化してみせはしない。

同様のことを異なった角度から云えば、このカート・ラッセルは切れ者すぎる。彼は行動を誤らない。自分が殺されることを回避するためには仲間を殺すこともまったく厭わない。つまりラッセルのすべての行動が理に適っているということだが、ここで逆に「理に適っていない」ということをいささか恣意的に云い換えれば、それは「人間らしい」ということになるだろう(血液検査によって敵を判別しようという計画はさすがに胡散臭いが、結果的にはそれも成功します)。ラッセルとカーペンターの相性のよさに疑いを挟む余地はないが、このラッセルには『ニューヨーク1997』や『ゴーストハンターズ』における彼のような魅力が乏しい。

もちろん、ラッセルに上記二作のような造型を求めれば映画はコメディに振れてしまうし、恐怖の対象の所在を「自己」や「関係」にも求めれば映画は重く湿ってしまう。賢明かつ映画全体をデザインする能力に優れたカーペンターは、映画を魅力的にも失敗作にするかもしれないそれらの要素を潔く排し、クールな演出に徹している。それは「正解」かもしれない。だが強い愛着を抱くには至らない。

(評価:★4)

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