[コメント] 激動の昭和史 沖縄決戦(1971/日)
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もちろん岡本・新藤らしい節操は散見されるのであり、それは戦艦大和乗組兵の犬死のニュアンス(反吉田満である)であったり、特攻隊の件における小便せず出撃したなどという狂歌の引用だったり、昭和天皇の額を射撃してしまう兵士だったり、丹波哲郎に寝言でお母さんと叫ばせたりする辺りで充分に感じられる。
しかしそれを差し引いても小林桂樹に係る責任逃れの助長としか思えない云い訳の数々は何なのか。大本営の冷淡も仲代達矢の八原高級参謀の判断ミスも史実だろうが、それでも彼は責任者。しかるに映画は彼を全く非難せず、田中邦衛を労わる優しい人間として描き続ける。こんなものを撮る意味が判らない。贔屓目に見れば当時の認識の甘さなのだろうが、それで許される話ではない。沖縄の人を前にしてこの作品を褒めることなどあり得ない。仲代にしてからが、彼が最後に米軍に見つかった瞬間にカットは変わり、責任が不問に付されるのは何故かさっぱり判らないのである。冒頭に史実ではないと書いたのであれば、彼をボコボコにして然るべきだ。
何やらフニャフニャした音楽も酷いもので、対馬丸沈没の次のカットでこれがかかり、マヌケな浜村純の知事を冷やかす件になるのには驚いた。対馬丸とともに沈んだ学童への哀惜など何も感じていない演出である。これに限らず、カット尻の甘さは全体を投げやりにしており、それぞれの画は岡本らしい力の入ったものだが、どれも持久力なく切り売りされる。手榴弾投げ捨てる子供の再登場は詩的だが特に閃きがない(子供が白旗振る有名な写真があるが、そのような力はない)。民間人の描写は前二作に劣り淡泊、病床の悲惨を追いかけた『ひめゆりの塔』や、行く宛てもなく野原をさ迷う民間人を追いかけた『沖縄の民』の粘着力がない。だから最後の亀甲墓の前で沖縄民謡を踊る辻伊万里や三井弘次は唐突で求心力がない。失敗作。
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